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みんなの「神社」ブログ


不思議の国の甲賀三郎と春日姫 - 諏訪大社の御柱祭によせて

2010/05/08 17:58



2010年、平成22年は数えで7年目ごとに行われるという諏訪大社の式年造営御柱大祭の年。


諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町
諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町



日本三大奇祭の筆頭に上げられるこの勇壮なお祭りは、4月には上社山出し〜下社山出し、5月のはじめに上社里曳き、5月7日には下社宝殿遷座祭が営まれ、今日5月8日からは下社里曳きがはじまり、今回も痛ましい事故で幾人かの死傷者を出しながらも、大きな盛り上がりを見せているとのこと。

ぼくは残念ながらそのお祭りに参加することもできず、ただニュース映像やライブ動画配信などでそのもようを観ながら、諏訪明神の信仰について思いをめぐらせてみました。




全国に五千以上の分社となる諏訪神社の総本社であり、日本国土の中心に位置するとも言われる信州・諏訪湖の北に下社の春宮・秋宮、南に上社の本宮・前宮の二社四宮を配する諏訪大社。

御柱祭りを筆頭に、諏訪湖の御神渡、耳裂鹿の生贄、あるいは人身御供としての一年神主の伝承などなど。

いくつかの特殊神事できわだった特色が見られるその「お諏訪さま」の信仰は、有史以前に起源を持ち、正確には探るすべもなく、様々な謎に包まれた複雑怪奇なもの。

古事記の記述により、御祭神は国譲りの際にこの地まで追いつめられて服従した建御名方命(たけみなかたのみこと)とされてはいますが、現実の地元諏訪地方の信仰にも神事の内容を記した古文書にも、どうもこの出雲神話の神が重視されているようすは見られず、むしろ縄文時代以来のミシャグジ信仰に由来するものとの解釈が有力なようです。

けれど、ぼくが諏訪明神と聞いてまず思い浮かべるのは、中世に安居院の神道集として編纂された本地垂迹説話集に書きとめられた「諏訪縁起事」に登場する、甲賀三郎と春日姫の伝説なのでした。




安寧天皇より5代の子孫、近江国甲賀権守の三人の子の末子である甲賀三郎諏訪(よりかた)が、大和国を賜り春日姫なる美姫を娶るも、伊吹山の天狗にさらわれて行方を失った春日姫を求めて分け入った蓼科山の人穴から、維縵国へ至る七十余国の地下世界を経巡り、再び地上に現れたときには長い年月の過ぎ去ったあと。身は蛇体となってたものの仏僧の語る話のおかげで人の姿に戻り、三郎の兄・次郎諏任に奪われようとしていた春日姫とも大和の三笠山で再会。その後、支那の平城国に赴いた後に日本に帰り、三郎は信濃国岡屋の里に諏訪大明神の上宮として顕れ、春日姫は下社の神として顕れた、というあらすじ。


このおはなしは室町時代の「神道集」に記されたばかりではなく、各地の民譚や浄瑠璃など、文献を離れたところでもさまざまなバリエーションとなって口承文芸の世界で生き続け、多くのひとびとに諏訪明神のファンタジーとして愛されてきた形跡が明確に認められます。

迷い込んだ地下の不条理な世界での、シュールレアリスティックな冒険物語。

突飛な空想かもしれませんが、この物語が、ぼくには「2010 年のアリス・イン・ワンダーランド」の頁を書いて以来何度も読み返しているルイス・キャロルの童話「不思議の国のアリス」に描かれた、うさぎ穴に落ち込んだアリスの不思議の国に通じるような気がしてしまうのです。





古代の信仰の遺跡としてばかりではなく、中世から近世へそして現在へと、信濃の諏訪地方はもとより、各地で甲賀三郎の冒険譚をよすがに諏訪明神信仰を伝えてきた人々の心の中も、まるで「アリス」の物語に夢中になってしまう子供のような好奇心でいっぱいだったのではないでしょうか?


そしてもうひとつ、「不思議の国のアリス」を読んで、うさぎを追って穴に落ちて行く少女の物語を読んで連想させられるのは、出雲神話の大国主命のおはなし。

因幡の白うさぎを助けた童話めいた神話で知られる大国主命は、その後兄神たちの虐めを逃れて須佐之男命(すさのをのみこと)の住む根の国へ赴き、そこで須佐之男命の策略に陥れられ、放たれた火に囲まれたとき、「内はほらほら、外はすぶすぶ」というネズミの声にしたがって地面の下の穴に入り込み隠れることができた、という地下の国をモチーフにした冒険譚です。

諏訪大社の御祭神・建御名方命は大国主命の子、などという系譜の上の図式ばかりではなく、この上代の出雲系の神話は、根の国・地下世界の遍歴と通過儀礼としての幾多の試練という構造と、兄たちによる末子の虐待、妻問いなどの諸々の要素で、遠く中世の甲賀三郎の諏訪本地とどこかでつながっているのかもしれません。

ぼくはそのことが、その二つの物語の間に「不思議の国のアリス」のイメージを介在することによって見えてきたような気がするのです。


諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町
諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町



須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりひめのみこと)を連れて根の国から去って行く大国主命に、須佐之男命は「底津磐根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽たかしりて居れ」という言葉をかけました。

大祓詞など多くの古典にも登場するこの成句を思うと、「柱」という日本神道の重要な呪物は、天にそびえる神さまの依り代でもありますが、むしろ底津磐根、すなわち地下世界との関わりこそが注目されてきます。


諏訪大社の御柱と、伊勢神宮の神秘の核心のひとつでもある心の御柱。

あるいは高天原の神話と出雲神話、ミシャグジ信仰と中世の説話の蛇体の神。

そのほんとうの姿を見定めるには、ぼくらの持つ好奇心を全開にして、深くリゾーム状に入り組んだ地下水脈をたどるように民俗の伝承と民族の潜在意識に分け入って行かなければならないのかもしれません。








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鎌倉 鶴岡八幡宮 大銀杏の樹の新芽とひこばえ

2010/05/04 18:06




ぼくは東北地方の出身でもあり、判官びいきでもあるので、義経追討と奥州征伐を行った鎌倉幕府の初代征夷大将軍・源頼朝という人物に対しては、必ずしも好感情を持っていませんでした。

けれど昨年、伊勢神宮への参拝にあたって所功著「伊勢神宮」(講談社学術文庫)を読んでいると、武家政権の基を築いた頼朝公が母方(熱田神宮大宮司)の影響もあって、早くから神社崇敬の念を持っていたことが幸いし、中世以後も神宮の式年造営の継承を可能にした、という歴史を教えられました。






考えてみると、鎌倉という街は実に不思議な街。

三方を山に囲まれ海岸に南面し天然の要塞となる鎌倉市街の都市設計は、支那風の都城に倣った平安京の流れを汲み、中央に若宮大路を敷設しているのですが、京の朱雀大路の果てには天子さまの住まわれる大内裏があるのに対し、この街の極には鶴岡八幡宮という神社、すなわち神さまのお宮があります。

つまりこの鎌倉という都市は、武力によって打ち立てられた新政権の府でありながら、その中心は覇者の住居となる城郭でも政務機関でもなく、八幡さまの神社の門前町として都市設計されていたのです。

このことがその後700年、日本の歴史の半ばを占める武家政治の性格をかたちづくっているのかもしれません。

鎌倉市街の地図を見るたびに、「日本は神の国」ということははるか2600年のむかしにさかのぼってのことだけではなく、中世の歴史にもくっきりと刻み込まれているのを目の当たりにさせられるような思いがするのです。






4月のある日、その鶴岡八幡宮に参詣。ぼくにとっては15年ぶりのお参りでした。


鎌倉 鶴岡八幡宮の御朱印とおみやげの鳩サブレー・クリップ
鎌倉 鶴岡八幡宮の御朱印とおみやげの鳩サブレー・クリップ



子供のころから「義経記」などを愛読して育ったぼくには、鶴岡八幡宮の舞殿を見れば、「しづのをだまき」の歌を詠いながら舞を奉納した白拍子、静御前のまぼろしを思い描かずにはいられません。






鶴岡八幡宮 舞殿



そして本宮へと向かう急斜面の61段の大石段、向かって左手にそびえる樹齢千年の大銀杏の樹は、「金槐和歌集」の万葉調の歌でも名高かった右大臣実朝を暗殺した公暁の隠れ銀杏と伝えられ、この八幡宮のシンボルでもあり、源平盛衰の帰結としての清和源氏嫡流の滅亡、そしてそこからはじまる800年の歴史の象徴でもありました。





そんなシンボリックな銀杏の大木が2010年の3月10日未明、強風に煽られて倒壊してしまったというニュースは、すぐには信じがたく、あのイチョウの木がない鶴岡八幡宮というものをイメージすることすら困難でした。


源実朝ゆかりの「隠れ銀杏」折れる
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/366898/



当初は回復も不可能、と報じられていた大銀杏。


倒壊鎌倉大銀杏「回復は不可能」 県が輪切りなどでの保存を要請
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/367305/



けれど4月になって、大銀杏の根元から、小さな新芽が顔を出し、移植された幹からもひこばえが伸びはじめたという報道が。


鶴岡八幡宮の大銀杏の根元に新芽
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/375666/



ぼくらが訪れたのは、4月23日の金曜日。

いつまでも冷たさが残る、春とは思えない雨の中。

それでも倒れてしまった銀杏の根元からは、いきおいよく緑が芽吹いているようすを見ることができました。


鎌倉 鶴岡八幡宮 倒壊した大銀杏の根元の新芽
鎌倉 鶴岡八幡宮 倒壊した大銀杏の根元の新芽



この若々しい緑の中に、次の世代の大銀杏に育つ新芽がまじっているとするならば、ぼくらは1000年の寿命を生きて歴史を見つめる大銀杏の、ちょうど代替わりに遭遇しているのかもしれません。


静御前の舞った舞殿も、公暁の隠れ銀杏も、鎌倉初期のものがそのまま現在のものではないという説もありますが、歴史を思う縁としてのその存在は何ものにもかえがたいものだと思うのです。

伊勢神宮が式年遷宮を繰り返すことによって再生をし続けていることに象徴されるように、日本の神社というものは単なる古物の博物館ではなく、生命力を持ったまま生き続け、再生していくものなのですから。

そうして大石段の上から雨に煙る街並みと海を眺めながら、いまから800年の後、1000年の後、この鶴岡八幡宮と鎌倉の街はどんなふうになっているだろう?と思いを馳せてみました。


鎌倉 鶴岡八幡宮境内にて
鎌倉 鶴岡八幡宮境内にて



鶴岡八幡宮境内、本宮の脇にそれたかたすみにて写真を一枚。

15年前、同じ場所で撮影した写真がこちらのページに掲載されています。

「雨の日の女」その37*番外編 「牛若丸」と「日本武尊」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kenketsu/rainyday_37b.html



この15年の歳月の中で、ぼくの中でも一度は折れてしまったけれど、何か新しいひこばえのようなものが芽吹きだしているような気もするのです。












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杉並大宮八幡宮 - 小さいおじさんの妖精が棲む神社の都市伝説

2010/04/25 00:42



近ごろ広まった都市伝説のひとつに「小さいおじさんの妖精の棲む神社」があって、そこへお参りをした芸能人がその「小さいおじさんの妖精」を連れ帰った、などという発言をして話題になっているということを聞きました。


テレビ都市伝説『小さいおじさん』の謎に迫る
http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20080908/Cyzo_200809_post_921.html

「小さいおじさんの妖精」が住む神社? 東京・杉並区「大宮八幡宮」には天女目撃談も
http://www.myspiritual.jp/2010/04/post-1291.html



怪異譚の類いは好きですが、昔からぼくは幽霊とか妖精など本気で信じるつもりはまるでありませんでした。

ましてやコナン・ドイルがだまされたコティングリーの少女と妖精のどう見ても合成でしかありえないインチキ写真にうっとりして、「わたしも小さな妖精に出会ったことがあるんです」などと語る不思議少女に対しては、「寝言は寝て言え」という言葉しか出てきません。





ぼくが直接聞いた体験談の中ではただひとつ、東北のある旧家で幼いころ甲冑を着た武士のまぼろしを見たことがあって、後になって気づいたのはそこが盛岡市前九年という地名がいまも残る1000年前の古戦場跡だった、というおはなしのことだけが、なんだか妙に気になっていました。

思えば、ようするにぼくが関心を寄せる怪異とは、超自然現象ではなく、民俗の潜在意識に眠る共同幻想の具現としてのそれだったのです。


画像
杉並 大宮八幡宮 御朱印



上のリンク先にもあるように、テレビではあえて「東京の中心の神社」などとぼかした表現だったそうですが、件の「小さいおじさんの妖精が棲む神社」は「東京のへそ」というキャッチコピーを持つ杉並の大宮八幡宮にまちがいないだろうと、ほぼ特定されているようです。

そんなわけで、まだ行ったことのない神社を訪れたいというぼくと、ふだんは神社などへお参りすることもないけれど心を清めてみたいという知人と、せっかくだからこの噂の杉並の大宮八幡宮へ参詣してみようということになりました。


大宮八幡宮 神門
杉並 大宮八幡宮 神門



武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれた杉並の大宮八幡宮は、いただいた御朱印にも「武蔵國八幡一之宮」とあり、東京都内で3番目の広さの境内を持つ大きなお宮。

東京の八幡宮と言えば江戸最大と言われる深川の富岡八幡宮のイメージが強かったので、比較的なじみの深い杉並区にこんな立派な神社があったことに、今回あらためて気づかされたのです。


杉並大宮八幡宮の御由緒をひもとくと、源頼義・義家父子による前九年・後三年の役にころに京都・石清水八幡宮より勧請されたことに由来するとのこと。

さらにこの付近には、古墳や先史時代の祭祀遺跡も見られ、神社の創建よりもはるかに遡る太古からの聖地でもあったもようです。


杉並 大宮八幡宮 祓所
杉並 大宮八幡宮 祓所



もとより、流行のパワースポットの話題作りでしかないかもしれない「小さなおじさんの妖精」などという都市伝説の謂れを真面目に詮索しても詮無きことだとは思うのですが、あえてそのイメージの源泉はどこにあるのか、思いをめぐらせてみました。


そこですぐに思い浮かぶのは、アイヌの伝承に登場する小人「コロポックル」のイメージ。

明治時代にわが国の黎明期の人類学界で大論争となった「コロポックル論争」を思い起こすと、小さき人とはアイヌ〜古代の蝦夷に連なる先住民の幻影なのかもしれません。


もうひとつ、日本神話の中に登場する小さな神さまといえば、常世の國からやってきて大国主命の国造りに力を貸したという少彦名命(すくなびこなのみこと)。

神産巣日神(かみむすびのかみ)の指の間からこぼれ落ちるようにして生まれ、ガガイモの殻でできた船に乗ってこの国に現れ、粟の茎にはじかれてまた常世の國へ去ったという小人神のことです。

この大宮八幡宮は八幡さまであるから、出雲神話の少彦名命とは関係がないかも、と思っていましたが、八幡神としてお祀りされている応神天皇へ、御母であらせられる神功皇后が次のような歌を奉ったとあることを思い出しました。

この御酒は わが御酒ならず 酒の司
常世に坐す 石たたず 少名御神の
神壽き 壽き狂おし 豊壽き 壽き廻し
獻りこし御酒ぞ 乾さず食せ ささ



ここには少名御神として歌われているスクナビコナの神。

崇神天皇の御代には、同じ内容の歌が大和なる三輪山の大物主神について詠まれていますが、いずれにしてもそれは国つ神、「国譲り」をしてどこかへ去って行った先住民の存在が強烈に意識された呪術的歌謡にちがいありません。


かつて明確な学術的根拠も曖昧なままにこの国の先住民が小人だったとする「コロポックル論争」が学会で長く唱えられたのにも、この神話と上代史に登場するスクナビコナのイメージが影響していたような気がします。


してみると、蝦夷征伐の功を立てた河内源氏により創建されたという神社に鎮められているであろう東国の先住民族へのおぼろげな印象が、「小さなおじさんの妖精」として、間歇遺伝のように現代の都市伝説にどこか影を落としているのかもしれません。


杉並 大宮八幡宮 拝殿
杉並 大宮八幡宮 拝殿



そんな想像をめぐらせながら訪れた春のうららかな日の杉並大宮八幡宮は、ちょうど安産祈願や子育厄除に吉とされる戌の日でもあり、たくさんの住民に愛される神社として生活の中に息づいているようすがうかがわれました。

もちろん、ぼくには「小さなおじさんの妖精」など感じることができません。

けれど、あるいはここに初宮参り連れられてきた子供たちは、この神域のどこかに眠っているそんなイメージを連れ帰り、いつの日か感じとることができることもあるのでしょうか?


杉並 大宮八幡宮 公式サイト
http://www.ohmiya-hachimangu.or.jp/








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坂本龍馬をお祀りする神社

2010/01/11 19:14



【坂本龍馬についてのノート その3】




坂本龍馬をお祀りする神社といえば、平成10年11月に高知県佐川町の龍馬公園内に設けられた「佐川龍馬神社」という小祠があり、平成19年にはこれが岐阜県中津川市の坂本八幡神社にも神職の方の熱意によって分祀が実現した、ということで、近年の人気の高まりを感じさせられます。

けれど、すでに明治の初年から、日本の東西にひとつずつ、坂本龍馬をご祭神としてお祀りする立派な神社があることをご存知でしょうか?





ひとつは、京都東山の霊山護国神社。ここには慶応3年に暗殺された龍馬を葬った墓があります。

京都霊山護国神社といえば、維新を目前にして倒れた志士たちの御霊をお祀りせよとの明治天皇の詔を奉じ、明治元年に創建された日本で初めての招魂社。

その起源は坂本龍馬生前の文久2年、殉難志士の神葬祭がこの地で行われたことにさかのぼると言われています。

もうひとつは翌明治2年、東京九段に創建された東京招魂社にも、維新殉難者の一柱として坂本龍馬命がお祀りされることとなりました。

すなわち、現在の靖国神社です。


靖国神社・護国神社といえば、圧倒的多数となる先の大戦の戦死者を顕彰する神社としてのイメージが強く、その歴史に蒙い方々には、いわゆる戦犯として刑死した昭和殉難者とともに龍馬のような幕末の英傑が合祀されていることに違和感を持たれるかもしれません。

しかし、前頁・前々頁でも触れたとおり、大東亜戦争を黒船来航以来の東亜百年戦争の帰結とする歴史観から見ればそれはごく自然のことなのです。


阿片戦争による東アジアの華夷秩序の崩壊の余波を受け、砲艦外交によって不平等条約体制に編入された日本国を万国公法の適用される文明国とするためのたたかい。

それは近代国際法をヨーロッパ・キリスト教国のみを文明国とする二重基準から解き放ち、普遍的な法の真理として世界に平等な秩序をもたらすものに昇華するための闘争とならざるをえなかったはず。

そしてその向かうところがアジアの解放の大義を掲げた大東亜戦争であったことは、歴史の必然でした。


万国公法を武器に「小攘夷」から「大攘夷」への転換を模索、天皇を中心とした国民国家を構想し、薩長同盟・大政奉還・船中八策といった御一新への布石を敷いた勤王の志士としての坂本龍馬。

昭憲皇太后の霊夢に現れて日露戦争を勝利に導いた憂国の志士としての坂本龍馬。

志なかばに凶刃に倒れ、護国神社・靖国神社にお祀りされる御霊となった坂本龍馬。

ここでそのすべての龍馬像は、ひとつにつながるものとして総合的に捉えることができるのです。





京都霊山護国神社と東京の靖国神社には、ともに極東国際軍事裁判でその裁判自体の不法性を弾劾し日本無罪論を開陳したラダビノード・パール判事の顕彰碑があります。

国際法の尊厳を訴え、後に世界連邦の実現による平和を唱えたパール判事もまた、戦勝国が正義を蹂躙するような不条理と戦ったアジアの同志であったのかもしれません。

けれど、坂本龍馬らが命を賭してはじめた東亜百年戦争の帰結としての大東亜戦争、その結末は国際法を無視し、あまつさえ「法の真理」を土足で踏みにじるような復讐劇である東京裁判でしめくくられてしまいました。

ぼくらの時代は、その東京裁判史観の呪縛の中にあり、そこでは「坂本龍馬」という思想はまるで意味不明なものとなってしまいます。

司馬遼太郎が描く「竜馬」でさえも、それが現代のぼくらとどう結びつくかという問いには答えようのない、一個のよくできたフィクション、それ以上でもそれ以下でもありえません。

ましてや史実のトリビアの中に坂本龍馬の身辺些事を掘り起こし、身近な人物像として再構成してみせたところで、それが何になるのか?ぼくにはまったく興味がありません。


広島市中区小町の本照寺というお寺には、広島平和公園の『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』という碑文の欺瞞に憤慨したパール判事が、それに代わる碑文を、と乞われて起草したという格調高い詩が刻まれた「大亜細亜悲願之碑」があります。

For the peace of those departed souls who took upon themselves the solemen vow at the salavation ceremony of oppressed Asia, "OH! Lord, thou being in my heart,
I do as appointed by you"

1952.11.5 Radhavinod Pal

激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の思いを抱いて 死んでいった
しかし 大地深く打ちこまれた
悲願は消えない

抑圧されたアジアの解放のため
その厳粛なる誓にいのち捧げた
魂の上に幸あれ

ああ 真理よ
あなたは我が心の中に在る
その啓示に従って我は進む

一九五二年一一月五日
ラダビノード・パール



本照寺檀家出征兵士及び原爆被災者へ捧げられたというこの言葉を、ぼくはそのままこの道一筋につらなる坂本龍馬命の英霊にも手向けたいと思うのです。



<< 【坂本龍馬についてのノート その1】・「坂本龍馬と昭憲皇太后の夢」
<< 【坂本龍馬についてのノート その2】・「坂本龍馬と万国公法」

リメンバー・パール判事 - remember justice radhabinod Pal -







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伊勢神宮のお札「神宮大麻」と「小さな神社」がある暮らし

2009/12/28 00:57



12月25日、わが家からメールが来たので見てみると、「埼玉県神社庁から、何か郵便物が届いてるよ」。

開封して写真に撮って送ってもらうと、小さな木の板きれが二つと、さらに小さな可愛らしい白木の鳥居がひとつ。


伊勢神宮の「神宮大麻」と小さなお札立て



それを見て、数ヶ月前に秩父三社めぐりをしたときに葉書をもらって応募した「『小さな神社』がある暮らし-鳥居付きお札立てプレゼント」というキャンペーンに当選したことを知りました。


お札立て



平成21年は長いこと夢見ていた伊勢神宮参詣を果たすことができた、ぼくにとって記憶すべき年。そのことはたびたびこのブログでも綴ってきました。



奇しくもクリスマスの晩に届いたこの贈り物は、日本の神さまがくれたその記念品のように思えてしまい、家へ帰るとさっそく、皇大神宮で授かった神宮大麻をセットしてみました。


伊勢神宮の「神宮大麻」と小さなお札立て



プレゼントと同封されていた文書には、次のように記されています。



とてもうれしい知らせが入ってきたとき。
気分が落ち込んでしまったとき。
何かを決意したとき・・・。

ふと、
神さまに手を合わせたくなることがあります。
そんなとき、たとえ神社まで足を運ぶことができなくても、心静かに手を合わせる場所が身近にあれば、日々の暮らしはもっと穏やかで優しいものになるでしょう。
おふだをまつることで神さまをより近くにお迎えすることができます。
お部屋の中に、「自分だけの小さな神社」がある暮らし、はじめてみませんか。



それでぼくもさっそくいま向かっている机の上に、神宮大麻をお祀りすることにしました。


「小さな神社」がある暮らし



伊勢神宮のお札「神宮大麻」は、実際に神宮へお参りすることが叶わない日本国中のひとびとにも御師によってもたらされ、徳川時代の後期には全国の約9割近い家庭に授与され、篤くお祀りされていたというもの。

歴史を知らない人たちは、伊勢神宮や皇室への日本人の崇敬の念が明治時代以降に国家神道として強制されてできあがったもののように思いこんでいるようですが、そんなことはまったくありません。

この日本人の心の拠りどころとなる伊勢神宮のお札は、いまでも三重県まで赴くまでもなく、全国の神社で受けることができます。

みなさんもお正月の初詣でに最寄りのお宮へお参りの際にはぜひ神宮大麻をお求めになって、お祀りをしてみてはいかがでしょうか?


埼玉県神社庁
https://www.saitama-jinjacho.or.jp/


伊勢神宮 神宮大麻
http://www.isejingu.or.jp/shosai/taima/taima1.htm








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Hanakoの神社特集と文学指向症

2009/12/18 03:53



ぼくは昔から神社が好きだったけれど、ひどく出不精なためにあまりお参りにも行くこともできずにいましたが、2009年は念願だった伊勢神宮への参拝をきっかけに、御朱印帳を持ってお出かけする楽しみに目覚めてしまいました。

そうしてあちらこちらのお社を訪れて強く感じたのは、若い女性にも神社巡りが人気と言われていることが決して空事ではなく、ほんとうに静かなブームとして確実に盛り上がっているという実感だったのです。

そんな折、電車の社内吊りの広告になつかしい伊勢皇大神宮の写真を見つけて、マガジンハウスの雑誌「Hanako」で聖地案内、神社巡りが特集されていることを知りました。





一生に一度は訪れたい聖地、伊勢・出雲・奈良・熊野。

気軽に立ち寄ることのできそうな「東京聖地案内」。

「日本の神社50&周辺エリア完全ガイド」というふれこみの記事は他のガイドブックの類いよりもコンパクトにまとまっていて、結構役に立つかもしれない、と思ってさっそく購入してみました。

各地の神社の概要とあわせて掲載されているグルメやカフェ情報も、保存しておけばこの先も重宝しそうです。


意外にいいことが書いてあるじゃないか、と感心してしまったのは「江原啓之先生が特別指南・今、行くべき聖地」と題された記事。

もとより、ぼくは神社のことを「スピリチュアル・サンクチュアリ」とか「パワースポット」というくくりで語る語り口には違和感を感じて、辟易してしまっていました。

まるで神社のことを得体の知れない電波や磁力でも放出している場所と誤解しているのではないかと思われるような、いまどきの似非科学至上主義が鼻について、むしろそれは古来の日本人の信仰心とは正反対のものとさえ思えてしまうのです。

江原啓之というひとは、なんとなくそんな「スピリチュアル」の仕掛人という先入観があったので、はじめはその文章を読むのにも構えてしまっていましたが、この記事はそんな昨今の風潮を内省的にかえりみた上で、あらためていくつかの神社の歴史的意義を問い直した、良い内容でした。



「江原啓之の『スピリチュアル・サンクチュアリの旅』は、単なるパワースポットの紹介でもなければ、ご利益を得るための攻略記事でもありません。それぞれの聖地について、価値と魅力をお知らせするとともに、そこから何を感じ、何を学び取っていくべきなのかを、私なりの視点でナビゲートしているのです。」



Hanakoの神社特集 大宮氷川神社の記事ページとお守り



江原啓之「今、いくべき聖地」



2009年のふたご座流星群」の頁で書いたように、天体観測が大好きだった中学生のころ、ぼくは本気で天文学者になりたいと思ったこともありました。

けれど今にして思えば、それはまったくの勘違いでした。

ぼくの天体嗜好症は、理系自然科学の一分野である現代天文学とはまったく別の、完全に文学的興味によるものだったことが、野尻抱影翁のエッセイ集などを読み返しているとよくわかってきます。


そして、この機会に振り返ってみました。ぼくにとっての「神社」とは何か?

歴史・神話・民族の伝統と民俗の伝承・・・。

それもまた、突き詰めて言ってしまえば「文学」なのだと思うのです。


ついでにもう一つ付け加えておくならば、ぼくが描く絵なども、美術であるよりも何よりもまず、やはり「文学」を志向しているような気がします。








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富士と筑波と新嘗祭の物忌み

2009/11/23 04:21



今日11月23日は、現在の法律では「勤労感謝の日」とされている新嘗祭の日。

日本国でいちばん大切なおまつりである践祚大嘗祭と、それに連なる年毎の新嘗祭のことについては、これまでにも「天皇論についてのノート 皇室祭祀と食儀礼」「伊勢の神宮の神嘗祭の日に」の頁でくりかえして触れてきましたが、平成21年のこの日をむかえて、今日は皇室祭祀に限定されることなく、あまねくこの民族に共有されてきた民間伝承の中の新嘗の祭りのことについて、思いを馳せてみました。




伊勢神宮の新嘗祭




晴れた日には、ぼくの棲む武蔵の国から、遠く駿河の国の富士山がよく見えます。

そして返り見すれば常陸の国の筑波の嶺を望むこともできるということは、数年前に人から教えていただいてはじめて心づきました。

「常陸国風土記」に記載されているこの二つの霊峰と新嘗にまつわる伝承のことについて、たとえば折口信夫博士は何度もその著作の中で言及しています。



(新嘗祭は)単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。
民間には、其物忌みの例が残つて居る。
常陸風土記を見ると、祖神(みおやがみ)が訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟の初嘗(わせのにひなめ)で、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。
そこで祖神は、筑波岳で宿止(やどめ)を乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇(つつしみつかへ)承つた、とある。
此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。
此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。

折口信夫「大嘗祭の本義」




新嘗の夜の忌みの模様は、おなじころのおなじ東の事を伝えた常陸風土記にも見えている。
御祖(ミオヤ)の神すなわち、母神が、地に降(くだ)って、姉なる、富士に宿を頼むと、今晩は新嘗ですからとにべもなく断った。
妹筑波に頼むと新嘗の夜だけれど、お母さんだからと言うて、内に入れてもてなした。
それから母神の呪咀によって、富士は一年中雪がふって、人のもてはやさぬ山となり、筑波は花紅葉によく、諸人の登ることが絶えぬとある。

折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」




天子さまが新嘗をきこしめす都をはるかに離れた東国の民間に伝承されていた上代の新嘗祭の姿を文献にとどめて現在に伝えてくれている、このうえなく貴重なこの史料。

身をやつして訪れる「まれびと」が実は貴人であり、その待遇をめぐっての勧善懲悪因果物語、というパターンは、いついつまでも根強く愛され続け、古くは謡曲「鉢の木」から、近くは「水戸黄門」や「裸の大将放浪記」などにいたるまで、飽きることもなく繰り返されていますが、この説話は最もその要素が凝縮された神話的原型とも見ることができそうです。

新嘗祭の物忌みについては「神無月・神在月と出雲大社のおみやげの鈴」の頁でも少しだけ触れましたが、柳田國男先生はその「忌み籠り」こそがこの国の祭りの本質であると説いています。

けれどそれならば、その厳重な新嘗の夜の物忌みのタブーを破って祖神に宿を貸した筑波が善とされ、あくまでも忌み籠りを貫こうとした富士が悪とされているかに見える「常陸国風土記」の説話をどう解釈したらいいのか、実はぼくは長い間思い迷っていました。

中世における賤民の発生史に典型的に見られるように、神聖なるものがそれゆえに禁忌の対象となり、やがてその原義が忘れられるとともに卑賤なるものとされてしまうという価値転倒は、決して珍しいことではなく、世の常のことでもあります。

富士筑波の新嘗の説話も、やはり新嘗祭の物忌みの重要性が忘れられてしまって、固陋な旧習と思われてしまった時代のものなのでしょうか?



平成20年 新嘗祭 浦安の舞 (森町三倉 許禰神社)





にほ鳥の葛飾早稲を饗(にへ)すともその愛しきを外に立てめやも
万葉集 巻十四 3386


葛飾の早稲を神さまに供える新嘗の夜は 身も心も清く保たなければならないのに, 愛しいあの人が来たら 外に立たせておくことなどできずに迎え入れてしまうでしょう、というこの恋歌なども、空虚な神の幻影よりも現身の恋人を選んでしまう後世風の感覚に思われますが、次の一首を介してみると、必ずしもそうとばかりは言えないような気がしてきます。


誰そこの屋の戸押そぶる新嘗に我が夫を遣りて斎(いは)ふこの戸を
万葉集 巻十四 3460


新嘗の夜の物忌みに、夫も外に送り出して潔斎して家に籠っているわたしの戸を叩くのは誰?というこの歌を、単なる夜這いの民謡と捉えてしまうのはそれこそ後世風の解釈でしかありません。

折口信夫が言うように、「昔は、新嘗の夜は、神が来た」。だからその夜、戸を叩くのは神なのです。

そんなふうに読み解くことではじめて腑に落ちるこの歌のあやしいときめきをふまえて、もういちど「にほ鳥の葛飾早稲」の歌を味わってみると、新嘗の夜の物忌みを破ってまで内へ引き入れずにいられないのは、ただの男ではなく、神さま。少なくとも神の資格と面影を兼ね備えた恋人だった、ということがわかります。

ひるがえって富士と筑波の風土記の説話を読み返すと、やはり新嘗の夜に訪れるまれびとは祖霊である、という信仰によって、単に徒な物忌みと空虚な饗宴の儀式としてとして形骸化してしまいそうな祭儀の原初の生命を、あやしいときめきとともに取り戻すことのできた筑波嶺の民の誇らしいよろこびが伝わってくるような気がするのです。


常陸国風土記 (講談社学術文庫 (1518))



宮中では即位20年を迎えられた天皇陛下が天照大神をはじめとする神々に新穀を料理した神饌を奉り、伊勢神宮をはじめ日本国中の神社が新嘗祭が執り行われる今日、ぼくはじっと家に引き蘢ってみたいと思います。

そして、なにかあやしいものの訪れにときめきながら耳を澄ませてみたいのです。







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神無月・神在月と出雲大社のおみやげの鈴

2009/10/27 03:30



10月のある日、たまたま島根県へ旅行に出たという方に、「今月は神無月、全国の神さまが杵築の出雲大社に集まる月だから、ぜひ出雲大社にお参りしてみて」とおすすめしたところ、さっそく赴かれて、「出雲大社はすごくいいパワースポットだった」と喜ばれ、わが家にもおみやげにお守りの「しあわせの鈴」を買ってきていただきました。


出雲大社のお守り「しあわせの鈴」



この方は、「日本瞥見記」の中で「出雲は、わけても神々の国である」と記したラフカディオ・ハーンの資料を展示・公開している松江の小泉八雲記念館にも立ち寄られたとのこと。

「因幡の白うさぎ」などの絵本を愛読した子供のころから出雲神話に親しんできたぼくにとっても、出雲はまさしく神々の国。

この夏はじめて参拝することができた伊勢神宮に次いで、出雲大社はぜひともいつかはお参りしてみたいと願っている神社の筆頭なので、思いがけずそのおみやげに「幸魂・奇魂・守給・幸給」と記された鈴をいただき御神徳にあやかることができて、望外の喜びでした。





ほんとうは出雲大社で「神在祭」が行われるのは太陰暦の10月11日から17日にかけて。今年・平成21年で言えば太陽暦の11月27日から12月3日まで。厳密に言えば出雲の国が「神在月」となるのはもう少し先のことでした。

しかし、そもそも「神無月」という言葉の由来は明らかではなく諸説あるようで、いずれにしても「神無」の字は宛て字であろうとされています。

10月には国津神が出雲の国に集う、という言い習わしも、古典にあとづけることのできない俗説にすぎないのかもしれません。

けれど、柳田國男先生の言うように「人間のすることにはたとえ仮令気狂でも動機があるべきだ」とするならば、この民俗に根ざした「神無月」の信仰にも何かしらのよりどころがあるにちがいありません。

折口信夫博士は、10月を「上の月」=「神無月」、11月を「下の月」=「霜月」と説いていて、それも語源の考察としてはちょっと魅力的な説ですが、不勉強ながらいまのところ、ぼくとしては伊勢神宮で神嘗祭が行われる陰暦9月から11月の新嘗祭までの間、新穀は神さまの御饌としてお供えされる月、「神嘗月」の転訛でできた言葉が「神無月」、神々が不在になるという印象はその物忌みからきているような気がしています。





出雲大社の「しあわせの鈴」を包んだ白い袋には、皇后陛下が平成15年の10月に詠まれたという御歌が印刷されていました。


出雲大社に詣でて

国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず


神代の豊穣な物語。
古代における大和朝廷への服属。
中世には16丈の巨大建築だったという社殿。
そして近世に広く民衆の想像力を掻き立てた神無月の神集い。


出雲大社とその神話世界への興味は、尽きることがありません。







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伊勢の神宮の神嘗祭の日に

2009/10/17 21:38



10月の17日は伊勢の神宮の神嘗祭の日。

7月に実現したお伊勢参りからちょうど3ヶ月が過ぎて、「伊勢神宮 参拝の印象」「卑弥呼の日食と天の岩戸神話」「美術手帖の伊勢神宮特集」「上野で見た『伊勢神宮と神々の美術展』のまとめ」など、伊勢神宮のことについてはもうすでに何度か書き綴ってきましたが、まだまだ書き尽くせないことがたくさんあって、今回はそのなかでも特に大切なことを書きとめておきます。





20年毎の式年遷宮を繰り返すことで原初をいまに伝えている伊勢の神宮。
皇祖神である天照大神をお祀りしている皇大神宮。

ぼくも主にそんな観点から伊勢神宮のことを語ってきましたが、調べてみるとさらにその基になっているのは、「食儀礼」の聖地としての伊勢神宮であるということがわかってきました。





悠久の歴史の中で、残念ながら式年遷宮も応仁の乱以後の戦乱の世紀には中絶を余儀なくされてしまったということです。

そんな時代も毎日、一日も欠かすことなく朝と夕の二度、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という古儀が千数百年にわたって繰り返されてきたということ。

その儀式は、「常典御饌(じょうてんみけ)」と呼ばれる太古のままのお食事を大神さまに奉るというもので、御水・御塩・御飯の三種を主として時節の野菜・海藻・魚類をきわめて丁寧に調理した熟饌を添えたものがお供えされています。

御水は、外宮境内・上御井神社の御井戸から汲み上げた清水。
御塩は、二見海岸の御塩浜で原始的な製法で焼き固められた堅塩。
御飯は、神宮の御料殿で収穫された抜穂を石碓で搗き、甑で蒸したもの。
それらを盛る素焼の土器は、毎回新たなものに取り替えられ、調理に使われる火は、木と木をすり合わせる御火鑚具を用いて舞錐式発火法で熾された忌火。





雄略天皇が夢に内宮の天照大神のお告げを聴き、丹波国・比治の真奈井の御饌津神、食物の女神さまである等由気大神(とようけおおみかみ)を伊勢の山田原に遷し奉ったのが外宮・豊受大神宮の御由緒で、日別朝夕大御饌祭が行われる御饌殿の造営もこのときに始まったとされています。

5世紀の雄略朝から平成の現在まで1500年、日ごとの朝夕を数えれば100万回をはるかに越え、御饌殿が再建され現在の制が確立したと認められる聖武天皇の神亀6年から数えても今年で1280年、半日も欠かすことなくこの儀式が繰り返されてきたということは、ほんとうに、気が遠くなるほどすごいことだと思うのです。





10月17日は伊勢の神宮の神嘗祭。「神宮のお正月」とも言われる年に一度の大祭が執り行われる日。

毎年、新たに収穫された御初穂の新穀を中心として饗せられる「由貴大御饌(ゆきのおおみけ)」が、外宮では15日、内宮では16日から供進され、それぞれ翌日には皇室から遣わされた勅使が幣帛を捧げ奉る奉幣の儀が行われています。





ちょうど伊勢神宮への参拝の前月、ぼくは「天皇論についてのノート 皇室祭祀と食儀礼」の中で、次の言葉を引いて宮中祭祀と民俗の関わりの現在的意味の再発見の感動を語っていました。

「『新嘗祭』は農耕儀礼ではなく、食儀礼である」
「人はみな、神の命である食によって生かされている。」
「(新嘗祭は)どんなに時代が変わろうと、決して変わらない真理に基づく祭祀である。」

小林よしのり「ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論」天皇論




今では「勤労感謝の日」となってしまった11月23日に行われる宮中の新嘗祭に先立って天皇が神さまに御初穂を捧げる伊勢神宮の神嘗祭、由貴大御饌祭。
そして、それを支える日別朝夕大御饌祭。

これらの祭儀こそが、ひいては日本国でいちばん大切なおまつりである践祚大嘗祭、即位される天子さまに天皇霊が継承される儀式の基ともなっているのです。





今年も実りの秋、収穫の秋をむかえて、おいしいごはんをありがたくいただくことの喜びと感謝の思いを、ことさらにしみじみと感じるようになってきました。

それがこの国の基本でもあるということを、日々、忘れずにいたいと思います。







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要石 - 後編・鹿島神宮

2009/09/24 03:27



要石 - 前編・香取神宮からの続きです。)





香取神宮から鹿島神宮へ巡る途上、「坂東太郎」の名を持つ暴れ川である利根川の流れを越えて、茨城県へ。

古代のひとびとは日本最大の河川が洪積してできたこの「ひたちのくに」に、「常陸国」の字をあてました。

「常陸風土記」にはこの国が海や沼を渡ることなく往来できる平野として開けていたことからこの好字があてられたと記されていますが、地下深く地震魚を鎮圧すると信じられた鹿島さまの要石の信仰を思うと、きっと彼らは霞ヶ浦や北浦の水系が入り組むこの陸地が、本来は海であってもおかしくない常ならぬものと観念していたからこそ、願いを込めて「常陸」の二文字を国の名としたように思われてきます。





鹿島神宮に到着。

楼門を抜けて右手にあるご神木を背後に控えた本殿に向かい参拝をすませ、左手に鹿園などを見ながら奥参道を歩いて奥の宮へ。




めぐり逢ふはじめをはりのゆくへかな鹿島の宮にかよふ心は

慈円






そして、鹿島神宮の要石はこの奥の宮のさらに奥まったところに鎮座していました。




尋ねかね今日見つるかなちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を

藤原光俊






前回も触れた澁澤龍彦のエッセイ「幻想動物学」は、その末尾でも明治の妖怪博士・井上円了の著作から、次の記述を引用しています。


俗間の伝うるところによれば、地震ひとたび起れば山を崩し、海を填め、民家を倒し、人類生物を圧殺すること其数を知らず、常陸の鹿島明神これを嘆き玉い、要石を以て鯰を刺し玉うといえり、三災録(下巻)に曰く、誠に小児の俗説なれども、大地の下に大なる鯰の居るというも昔より言い伝えたる俗言にや、又建久九年の暦の表紙に地震の虫とて其の形を描き、日本六十余州の名を記したるものあり、俗説なるべけれども、既に六七百年前よりかかる事もあれば、鯰の説も何れの書にか拠り所あらんか、仏説には竜の所為とも言えり、古代の説は大ようかくの如きものなるべし。

井上円了「妖怪学」






「水戸黄門仁徳緑」に記された17世紀の要石発掘については前回も触れましたが、「大日本史」の編纂に着手して水戸派国学を創始した徳川光圀がこの要石に興味を抱いたのも、井上円了博士が不思議に思ったように、歴史をつらぬいて生き続ける民俗の伝承の根源を掘り起こしてみたい、という思いからだったにちがいありません。

そして光圀公のあとを承けて発展した水戸学が、徳川御三家のひとつでありながら尊王攘夷の思想を熟成し、やがて幕藩体制そのものをを揺るがすにいたった背景には、鹿島灘という広大な海岸線を太平洋に晒しているこの地方の地政学的な条件も作用した、ということをどこかで聞いた事があります。





地震をおそれ、外敵の侵攻を憂い、鹿島の神の神徳を頼みとする「常陸」の国の危機意識。それは幕末には二つの形で現実の危機となってこの国を襲いました。

いうまでもなく、ひとつは異国船の来航。

もうひとつは、その騒動のさなかに江戸市中を壊滅させた安政の大地震。

この時期に水戸学最大のイデオローグであった学者・藤田東湖は、文政年間に鹿島灘の北端・大津にイギリスの捕鯨船が来航した際、父から船員の暗殺を示唆され、十代にして死を覚悟したと後に述懐しています。

その思いが「三たび死を決して而して死せず。二十五回刀水を渡る」と吟じた有名な「回天詩史」に込められていると知ってみれば、さらにこの詩の深みがまして感じられます。

そして、安政の大地震に遭遇し、老母を庇って倒壊した家屋の下敷きになって圧死したという藤田東湖の最期が、「回天」と名付けられた人間魚雷で特攻、「鹿島立ち」していった先の大戦の英霊にも、ひとすじにつながるものであったと気づかされるのです。

霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に我れは来にしを

大舎人部千文 万葉集4370






1855年、マグニチュード6.9の安政の大地震に戦慄した庶民の間では剣で大ナマズを押さえつける鹿島の武甕槌神を画題とした「鯰絵」が大流行していて、その絵を見ていると、60年周期で流行した「おかげ参り」が慶応3年の「ええじゃないか」の狂騒となって現れたのと同じように、明治の御一新の強力な起爆剤であったように思われてきました。

いま、平成のお伊勢参りが大流行のきざしを見せているという説があり、7月の伊勢神宮参拝のときにぼくが目にした光景を思い出すと、それがまんざら誇大広告の類いとばかりは思えません。

あるいはそれもまた、地震を予知するナマズのように、生理的に何かの暗示を察知してのことなのでしょうか?

奇しくも伊勢神宮をめざす「おかげ参り」と同様、関東地方を揺るがす大地震も60年ほどの周期性を持っていると説かれていて、実際に安政の次には大正の関東大震災となって、帝都に甚大な被害をもたらしました。

そして水戸学の先達が憂慮していた夷狄の襲来は、先の大戦の末期に一億の国民が覚悟することとなった本土決戦にあたって、まず鹿島灘への米軍上陸を想定したシナリオとなって描かれましたが、これは実行に移されることはなく終戦の日を迎えました。

けれど忘れたころにやってくる天災も、列強の脅威も、決して永久に去る事はなく、いつ揺るがされるかわからない不安が回遊し続けるこの浮世に、ぼくらは日々を生きているのです。





清水が湧き続け幽玄な空気が漂う御手洗池を悠然と泳ぐ鯉たちを眺め名物のみたらし団子を食べながら、紙に書いて3度唱え門に貼っておくと地震除になると信じられたおまじないの歌を、心の中で唱えてみました。

ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは

万葉集




鹿島神宮にあったもうひとつの石、「君が代」に歌われた「さざれ石」が巌となって苔のむすまで、千代に八千代に鹿島さまの力があってほしいと願わずにはいられませんでした。







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タイトル 日 時
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