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みんなの「旅行」ブログ


鎌倉 鶴岡八幡宮 大銀杏の樹の新芽とひこばえ

2010/05/04 18:06




ぼくは東北地方の出身でもあり、判官びいきでもあるので、義経追討と奥州征伐を行った鎌倉幕府の初代征夷大将軍・源頼朝という人物に対しては、必ずしも好感情を持っていませんでした。

けれど昨年、伊勢神宮への参拝にあたって所功著「伊勢神宮」(講談社学術文庫)を読んでいると、武家政権の基を築いた頼朝公が母方(熱田神宮大宮司)の影響もあって、早くから神社崇敬の念を持っていたことが幸いし、中世以後も神宮の式年造営の継承を可能にした、という歴史を教えられました。






考えてみると、鎌倉という街は実に不思議な街。

三方を山に囲まれ海岸に南面し天然の要塞となる鎌倉市街の都市設計は、支那風の都城に倣った平安京の流れを汲み、中央に若宮大路を敷設しているのですが、京の朱雀大路の果てには天子さまの住まわれる大内裏があるのに対し、この街の極には鶴岡八幡宮という神社、すなわち神さまのお宮があります。

つまりこの鎌倉という都市は、武力によって打ち立てられた新政権の府でありながら、その中心は覇者の住居となる城郭でも政務機関でもなく、八幡さまの神社の門前町として都市設計されていたのです。

このことがその後700年、日本の歴史の半ばを占める武家政治の性格をかたちづくっているのかもしれません。

鎌倉市街の地図を見るたびに、「日本は神の国」ということははるか2600年のむかしにさかのぼってのことだけではなく、中世の歴史にもくっきりと刻み込まれているのを目の当たりにさせられるような思いがするのです。






4月のある日、その鶴岡八幡宮に参詣。ぼくにとっては15年ぶりのお参りでした。


鎌倉 鶴岡八幡宮の御朱印とおみやげの鳩サブレー・クリップ
鎌倉 鶴岡八幡宮の御朱印とおみやげの鳩サブレー・クリップ



子供のころから「義経記」などを愛読して育ったぼくには、鶴岡八幡宮の舞殿を見れば、「しづのをだまき」の歌を詠いながら舞を奉納した白拍子、静御前のまぼろしを思い描かずにはいられません。






鶴岡八幡宮 舞殿



そして本宮へと向かう急斜面の61段の大石段、向かって左手にそびえる樹齢千年の大銀杏の樹は、「金槐和歌集」の万葉調の歌でも名高かった右大臣実朝を暗殺した公暁の隠れ銀杏と伝えられ、この八幡宮のシンボルでもあり、源平盛衰の帰結としての清和源氏嫡流の滅亡、そしてそこからはじまる800年の歴史の象徴でもありました。





そんなシンボリックな銀杏の大木が2010年の3月10日未明、強風に煽られて倒壊してしまったというニュースは、すぐには信じがたく、あのイチョウの木がない鶴岡八幡宮というものをイメージすることすら困難でした。


源実朝ゆかりの「隠れ銀杏」折れる
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/366898/



当初は回復も不可能、と報じられていた大銀杏。


倒壊鎌倉大銀杏「回復は不可能」 県が輪切りなどでの保存を要請
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/367305/



けれど4月になって、大銀杏の根元から、小さな新芽が顔を出し、移植された幹からもひこばえが伸びはじめたという報道が。


鶴岡八幡宮の大銀杏の根元に新芽
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/375666/



ぼくらが訪れたのは、4月23日の金曜日。

いつまでも冷たさが残る、春とは思えない雨の中。

それでも倒れてしまった銀杏の根元からは、いきおいよく緑が芽吹いているようすを見ることができました。


鎌倉 鶴岡八幡宮 倒壊した大銀杏の根元の新芽
鎌倉 鶴岡八幡宮 倒壊した大銀杏の根元の新芽



この若々しい緑の中に、次の世代の大銀杏に育つ新芽がまじっているとするならば、ぼくらは1000年の寿命を生きて歴史を見つめる大銀杏の、ちょうど代替わりに遭遇しているのかもしれません。


静御前の舞った舞殿も、公暁の隠れ銀杏も、鎌倉初期のものがそのまま現在のものではないという説もありますが、歴史を思う縁としてのその存在は何ものにもかえがたいものだと思うのです。

伊勢神宮が式年遷宮を繰り返すことによって再生をし続けていることに象徴されるように、日本の神社というものは単なる古物の博物館ではなく、生命力を持ったまま生き続け、再生していくものなのですから。

そうして大石段の上から雨に煙る街並みと海を眺めながら、いまから800年の後、1000年の後、この鶴岡八幡宮と鎌倉の街はどんなふうになっているだろう?と思いを馳せてみました。


鎌倉 鶴岡八幡宮境内にて
鎌倉 鶴岡八幡宮境内にて



鶴岡八幡宮境内、本宮の脇にそれたかたすみにて写真を一枚。

15年前、同じ場所で撮影した写真がこちらのページに掲載されています。

「雨の日の女」その37*番外編 「牛若丸」と「日本武尊」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kenketsu/rainyday_37b.html



この15年の歳月の中で、ぼくの中でも一度は折れてしまったけれど、何か新しいひこばえのようなものが芽吹きだしているような気もするのです。












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神無月・神在月と出雲大社のおみやげの鈴

2009/10/27 03:30



10月のある日、たまたま島根県へ旅行に出たという方に、「今月は神無月、全国の神さまが杵築の出雲大社に集まる月だから、ぜひ出雲大社にお参りしてみて」とおすすめしたところ、さっそく赴かれて、「出雲大社はすごくいいパワースポットだった」と喜ばれ、わが家にもおみやげにお守りの「しあわせの鈴」を買ってきていただきました。


出雲大社のお守り「しあわせの鈴」



この方は、「日本瞥見記」の中で「出雲は、わけても神々の国である」と記したラフカディオ・ハーンの資料を展示・公開している松江の小泉八雲記念館にも立ち寄られたとのこと。

「因幡の白うさぎ」などの絵本を愛読した子供のころから出雲神話に親しんできたぼくにとっても、出雲はまさしく神々の国。

この夏はじめて参拝することができた伊勢神宮に次いで、出雲大社はぜひともいつかはお参りしてみたいと願っている神社の筆頭なので、思いがけずそのおみやげに「幸魂・奇魂・守給・幸給」と記された鈴をいただき御神徳にあやかることができて、望外の喜びでした。





ほんとうは出雲大社で「神在祭」が行われるのは太陰暦の10月11日から17日にかけて。今年・平成21年で言えば太陽暦の11月27日から12月3日まで。厳密に言えば出雲の国が「神在月」となるのはもう少し先のことでした。

しかし、そもそも「神無月」という言葉の由来は明らかではなく諸説あるようで、いずれにしても「神無」の字は宛て字であろうとされています。

10月には国津神が出雲の国に集う、という言い習わしも、古典にあとづけることのできない俗説にすぎないのかもしれません。

けれど、柳田國男先生の言うように「人間のすることにはたとえ仮令気狂でも動機があるべきだ」とするならば、この民俗に根ざした「神無月」の信仰にも何かしらのよりどころがあるにちがいありません。

折口信夫博士は、10月を「上の月」=「神無月」、11月を「下の月」=「霜月」と説いていて、それも語源の考察としてはちょっと魅力的な説ですが、不勉強ながらいまのところ、ぼくとしては伊勢神宮で神嘗祭が行われる陰暦9月から11月の新嘗祭までの間、新穀は神さまの御饌としてお供えされる月、「神嘗月」の転訛でできた言葉が「神無月」、神々が不在になるという印象はその物忌みからきているような気がしています。





出雲大社の「しあわせの鈴」を包んだ白い袋には、皇后陛下が平成15年の10月に詠まれたという御歌が印刷されていました。


出雲大社に詣でて

国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず


神代の豊穣な物語。
古代における大和朝廷への服属。
中世には16丈の巨大建築だったという社殿。
そして近世に広く民衆の想像力を掻き立てた神無月の神集い。


出雲大社とその神話世界への興味は、尽きることがありません。







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要石 - 後編・鹿島神宮

2009/09/24 03:27



要石 - 前編・香取神宮からの続きです。)





香取神宮から鹿島神宮へ巡る途上、「坂東太郎」の名を持つ暴れ川である利根川の流れを越えて、茨城県へ。

古代のひとびとは日本最大の河川が洪積してできたこの「ひたちのくに」に、「常陸国」の字をあてました。

「常陸風土記」にはこの国が海や沼を渡ることなく往来できる平野として開けていたことからこの好字があてられたと記されていますが、地下深く地震魚を鎮圧すると信じられた鹿島さまの要石の信仰を思うと、きっと彼らは霞ヶ浦や北浦の水系が入り組むこの陸地が、本来は海であってもおかしくない常ならぬものと観念していたからこそ、願いを込めて「常陸」の二文字を国の名としたように思われてきます。





鹿島神宮に到着。

楼門を抜けて右手にあるご神木を背後に控えた本殿に向かい参拝をすませ、左手に鹿園などを見ながら奥参道を歩いて奥の宮へ。




めぐり逢ふはじめをはりのゆくへかな鹿島の宮にかよふ心は

慈円






そして、鹿島神宮の要石はこの奥の宮のさらに奥まったところに鎮座していました。




尋ねかね今日見つるかなちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を

藤原光俊






前回も触れた澁澤龍彦のエッセイ「幻想動物学」は、その末尾でも明治の妖怪博士・井上円了の著作から、次の記述を引用しています。


俗間の伝うるところによれば、地震ひとたび起れば山を崩し、海を填め、民家を倒し、人類生物を圧殺すること其数を知らず、常陸の鹿島明神これを嘆き玉い、要石を以て鯰を刺し玉うといえり、三災録(下巻)に曰く、誠に小児の俗説なれども、大地の下に大なる鯰の居るというも昔より言い伝えたる俗言にや、又建久九年の暦の表紙に地震の虫とて其の形を描き、日本六十余州の名を記したるものあり、俗説なるべけれども、既に六七百年前よりかかる事もあれば、鯰の説も何れの書にか拠り所あらんか、仏説には竜の所為とも言えり、古代の説は大ようかくの如きものなるべし。

井上円了「妖怪学」






「水戸黄門仁徳緑」に記された17世紀の要石発掘については前回も触れましたが、「大日本史」の編纂に着手して水戸派国学を創始した徳川光圀がこの要石に興味を抱いたのも、井上円了博士が不思議に思ったように、歴史をつらぬいて生き続ける民俗の伝承の根源を掘り起こしてみたい、という思いからだったにちがいありません。

そして光圀公のあとを承けて発展した水戸学が、徳川御三家のひとつでありながら尊王攘夷の思想を熟成し、やがて幕藩体制そのものをを揺るがすにいたった背景には、鹿島灘という広大な海岸線を太平洋に晒しているこの地方の地政学的な条件も作用した、ということをどこかで聞いた事があります。





地震をおそれ、外敵の侵攻を憂い、鹿島の神の神徳を頼みとする「常陸」の国の危機意識。それは幕末には二つの形で現実の危機となってこの国を襲いました。

いうまでもなく、ひとつは異国船の来航。

もうひとつは、その騒動のさなかに江戸市中を壊滅させた安政の大地震。

この時期に水戸学最大のイデオローグであった学者・藤田東湖は、文政年間に鹿島灘の北端・大津にイギリスの捕鯨船が来航した際、父から船員の暗殺を示唆され、十代にして死を覚悟したと後に述懐しています。

その思いが「三たび死を決して而して死せず。二十五回刀水を渡る」と吟じた有名な「回天詩史」に込められていると知ってみれば、さらにこの詩の深みがまして感じられます。

そして、安政の大地震に遭遇し、老母を庇って倒壊した家屋の下敷きになって圧死したという藤田東湖の最期が、「回天」と名付けられた人間魚雷で特攻、「鹿島立ち」していった先の大戦の英霊にも、ひとすじにつながるものであったと気づかされるのです。

霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に我れは来にしを

大舎人部千文 万葉集4370






1855年、マグニチュード6.9の安政の大地震に戦慄した庶民の間では剣で大ナマズを押さえつける鹿島の武甕槌神を画題とした「鯰絵」が大流行していて、その絵を見ていると、60年周期で流行した「おかげ参り」が慶応3年の「ええじゃないか」の狂騒となって現れたのと同じように、明治の御一新の強力な起爆剤であったように思われてきました。

いま、平成のお伊勢参りが大流行のきざしを見せているという説があり、7月の伊勢神宮参拝のときにぼくが目にした光景を思い出すと、それがまんざら誇大広告の類いとばかりは思えません。

あるいはそれもまた、地震を予知するナマズのように、生理的に何かの暗示を察知してのことなのでしょうか?

奇しくも伊勢神宮をめざす「おかげ参り」と同様、関東地方を揺るがす大地震も60年ほどの周期性を持っていると説かれていて、実際に安政の次には大正の関東大震災となって、帝都に甚大な被害をもたらしました。

そして水戸学の先達が憂慮していた夷狄の襲来は、先の大戦の末期に一億の国民が覚悟することとなった本土決戦にあたって、まず鹿島灘への米軍上陸を想定したシナリオとなって描かれましたが、これは実行に移されることはなく終戦の日を迎えました。

けれど忘れたころにやってくる天災も、列強の脅威も、決して永久に去る事はなく、いつ揺るがされるかわからない不安が回遊し続けるこの浮世に、ぼくらは日々を生きているのです。





清水が湧き続け幽玄な空気が漂う御手洗池を悠然と泳ぐ鯉たちを眺め名物のみたらし団子を食べながら、紙に書いて3度唱え門に貼っておくと地震除になると信じられたおまじないの歌を、心の中で唱えてみました。

ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは

万葉集




鹿島神宮にあったもうひとつの石、「君が代」に歌われた「さざれ石」が巌となって苔のむすまで、千代に八千代に鹿島さまの力があってほしいと願わずにはいられませんでした。







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要石 - 前編・香取神宮

2009/09/23 02:01



千葉県香取市の香取神宮と、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮。

記紀神話の国譲りの場面にて活躍する武甕槌命(たけみかづちのみこと)が鹿島の神、経津主命(ふつぬしのみこと)が香取の神、藤原氏の氏神である奈良の春日神社もこの二社の神を遷し祀ったものとされ、中臣氏の神道との関わりも深く、それぞれ古くから各地の尊崇を集めてきた由緒ある神社ですが、この二つの古社に共通して、さらにとりわけ興味深く思っていたことが二つありました。


ひとつは、その名に「神宮」の文字を冠していること。

現在ではご存知「明治神宮」「平安神宮」「熱田神宮」など、いくつもの「神宮」を社号とする神社を数え上げることができますが、正式名称を「神宮」とする伊勢神宮は別格とし、「日本書紀」に見える「石上神宮」を除けば、近世以前に「神宮」の名で呼ばれていたのは「延喜式神名帳」に記されたこの「香取神宮」「鹿島神宮」のみだったということです。

この7月に生まれてはじめて伊勢神宮参拝を果たし、その印象がまだあざやかなまま9月に国立博物館の「伊勢神宮と神々の美術」展を拝観、ますますその神秘に魅かれてしまった勢いで、香取神宮から鹿島神宮への巡拝へと出かけてきました。





「神宮」の名称に加えてもうひとつ、香取神宮と鹿島神宮に共通して興味をそそられていたのが「要石」(かなめいし)のこと。

「要石」とは、地下の奥深くで地震を起こす大鯰の頭を抑える神さまの剣の一部が地上にすこしだけ頭を出したものと伝えられてきた霊石のことで、香取と鹿島の両神宮に現存しているというのです。

地震が起きるときナマズが異常な動きを見せる、という自然現象から類推して、地底に大ナマズが棲んでいるという俗説が信じられていたということは子どものころからよく耳にしたものですが、ぼくがはじめてこの「要石」を強く印象づけられたのは、むかし澁澤龍彦の著書「黄金時代」に収められたエッセイ「幻想動物学」の冒頭に、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの次のような一節が引用されているのを読んだときでした。



セネカの文章の一節によれば、ミレトスのターレスは、地球が小舟のように水の上に漂っていて、水が嵐に揺り動かされると地震が起こるのだ、と教えたそうである。8世紀の日本の歴史家や神話学者は、これとは違った地震学の理論を私たちに示している。

名高い書物の1ページに、次のごとき記述がある。

「大地の下に、似鯉の姿をしたカミ(超自然の存在)なるものが棲んでおり、そいつが動いて大地を揺さぶるので、鹿島の大神が、大地に剣を突き刺して、そいつの頭をつらぬき通した。カミが動くと、大神は剣の柄頭に身をもたせかけるので、ふたたびカミは静かになるのである。」

(石を刻んだ剣の柄頭は、鹿島神宮のすぐ近くに、地面から突き出て立っている。17世紀のさる封建領主が、6日6晩を費して地面を掘ったが、剣の先までは達しなかった。)

俗間の信仰では、地震魚は、その背に日本の国土をのせた、長さ700マイルにおよぶ一匹の巨大な鰻である。・・・

ホルヘ・ルイス・ボルヘス / マルゲリタ・ゲレロ 「幻想動物学概要」






これはぜひいつか見に行ってみたい、と思っていたのです。


まずは下総国一宮・香取神宮へ。

一の鳥居から境内へ入り、本殿へと向かう前に左手の小径にそれて石段を上ると、明治以降の国難に殉じた香取郡出身の御霊を祭神として祀る護国神社があります。





香取神宮の「要石」は護国神社の裏手にある末社・押手稲荷神社の小祠の正面にありました。





正直言って、ぼくがこの要石を見てみたいと思った動機の半ば以上は、珍奇な迷信の遺物を見るような好奇心だったかもしれません。

けれど、国土を鎮める要石へお参りする道程に「護国」の社を建てたひとびとの切実な祈りに思い当たって、その信仰はまちがいなく近代にも生き続けていたことを思い知りました。

古事記の国生み神話によると「浮きし脂の如くして、海月(くらげ)なす漂える」という状態から作り固められたという大八洲(おおやしま)、この日本列島に生きる上で、古代のひとびとも現代のぼくらもまったく同じように、「地震」に象徴されるカタストロフィーの根源的な恐怖と不安から逃れられずにいます。

それはまた、四方を海に囲まれたこの国を、常に外敵から護らなければならないという国防意識ともリンクしていたはずなのです。





香取神宮本殿へ向かう参道へ戻り、総門を抜けて楼門へ。

上に引いたボルヘスの著作でも言及されている「要石」についての有名なエピソードとして、古墳発掘などの業績を残した水戸藩第二代藩主・徳川光圀公が要石の発掘作業に着手したものの、掘り返した分だけ翌朝にはまた埋もれてしまうという怪異が起こったため、昼夜を徹して7日7晩にわたって掘り続け、それでもついに底まで堀り下げることはできなかった、という伝説があります。

その光圀公御手植えと伝えられる「黄門桜」がかたわらに植えられた朱塗りの楼門を見上げると、名将・東郷平八郎元帥の筆で「香取神宮」と揮毫された額が掲げられていました。





拝殿にて参拝。その左手には海上自衛隊練習艦 「かとり」の錨が飾られています。

ここでぼくは、東郷元帥が皇国の興廃を決して戦い勝利した日露戦争の後、大日本帝国海軍の主力艦であった戦艦「香取」、昭和19年米艦隊の砲撃で撃沈された練習巡洋艦「香取」など、国を護るために進水していった軍艦にこの神宮の名が採られた深い意味に気づきました。

護国神社にお祀りされている幾多のみたま。
日本海戦で世界最強のバルチック艦隊を鎮圧した英雄。
香取神宮の名を背負う軍艦の乗組員たち。

みんな、はるかな古代にこの地に現れ、人智を超えた自然の驚異を要石で鎮めてくれた神々の力と一筋につながるものであったにちがいありません。





香取神宮の参拝を終え、外へ出ると古い町並みが連なる佐原の街へ。

伊能忠敬記念館が名所となっているこの街を通り過ぎ、驚くべき精度を誇るわが国最初の実測日本地図「大日本沿海輿地全図」をつくりあげた彼の国防意識も、きっと香取神宮に連なる国家鎮護の系譜と無縁のものではなかったはず、などということにも思いを馳せながら、もうひとつの「要石」の鎮まる次の目的地、鹿島神宮へと向かいました。


要石 - 後編・鹿島神宮につづく。)







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三峯神社のオオカミの護符

2009/08/14 19:18




秩父三社と総称される三つのお社、宝登山神社・秩父神社・三峯神社を巡り、参詣してきました。


御朱印帖から 御朱印帖から 〜三峯神社・宝登山神社・秩父神社

御朱印帖から 〜三峯神社・宝登山神社・秩父神社




ぼくの棲む浦和からのアクセスを調べてみると、高崎線から熊谷で秩父鉄道へ乗り換え、というコースもありましたが、今回は早朝から池袋へ出て西武線で西武秩父駅へ向かうことに。

西武池袋線も所沢を過ぎ、飯能を過ぎてしばらく行くと山の世界へ。

同じ埼玉県とはいうものの、武州秩父郡として武蔵の国に併合される前は知知夫の国だったというだけあって、どこか文化圏の違いが感じられる異郷の風景の中、夏休みらしい非日常の空気にひたることができて、すっかりうれしくなってしまいました。

昭和のまま時間が止まってしまったような不思議な山間の町で、懐かしいデザインの列車が並ぶ秩父鉄道では都心から一番近い蒸気機関車、SL「パレオエクスプレス」も走っています。


秩父鉄道SLパレオエクスプレス 三峯口駅にて

秩父鉄道SLパレオエクスプレス 三峯口駅にて




当初は、ロープウェイが数年前に廃止されてしまったため、平日は日に3本しか出ないという西武バスで三峯神社へ登拝するつもりでスケジュールを組んでいましたが、現地でレンタカーを借りることができて、予定にはなかった長瀞の宝登山神社にも先にお参りすることができました。

そして秩父神社に参拝の後、山道をひた走り、いよいよ三峯神社へ。

そこには昭和の時代どころか、千古の昔から変わっていない景色が残っていたのです。


三峯神社 遥拝殿より望む奥の宮のある妙法嶽

三峯神社 遥拝殿より望む奥の宮のある妙法嶽




社伝によると日本武尊、ヤマトタケルが東征の際この山に登って遥かに国中の地理を見渡し、仮宮を造営して国産みの諾冉二神、イザナギノミコト・イザナミノミコトを祀ったことが創建の縁起として伝えられていて、本体5.2m・地上15mの日本武尊の銅像が巨大な姿で聳えたっています。


三峯神社 日本武尊銅像

三峯神社 日本武尊銅像




さて、三峯神社といえば山犬信仰。

オオカミを神さまの使いとして畏れ敬い、地元はもとより各地に三峯講が組織され、熱心な御眷属信仰が広まっていることで知られ、ぼくもずっとむかし、角川書店から発行されていた「日本史探訪」のシリーズ第一巻・日本人の原像という本に収められた「野生の声が消え去るとき オオカミの裔」 (構成・水谷慶一 直良信夫/畑正憲)という座談で触れられていたのを読んでから、とても興味深く思っていました。


三峯神社 三つ鳥居と狼の狛犬

三峯神社 三つ鳥居と狼の狛犬




それで今回、現在の形での狼信仰が完成し広まったのは近世のことであっても、その原型となる畏怖の念はかつての神仏混淆の時代〜修験道の時代も通じて、太古より受け継がれてきたものだったに違いないということを、このオオカミ崇拝の聖地で実感したのです。


今こそ狼は山の神の使令として、神威を宣布する機関に過ぎぬだろうが、もし人類の宗教にも世に伴う進化がありとすれば、かつて狼をただちに神と信じて、畏敬祈願した時代があって、その痕跡は数々の民間行事、ないし覚束ない口碑などに、たどればこれを尋ねだすことができるわけである。

柳田國男「山の人生




三峯神社 狼の狛犬 神田市場講奉納

三峯神社 狼の狛犬 神田市場講奉納




三峯神社から貸与される山犬の神札は御眷属=山犬、すなわちオオカミそのものと観念され、そのお狗さま1疋で50戸まで守護する護符として崇敬され、尊ばれてきたと言われています。

ぼくもわが家へのお土産に、お狗さまが描かれたお守りをひとつ、いただいてきました。


画像

三峯神社 お狗さまが描かれたお守り




三峯権現を信じ盗難火難除けの守護の札を付与する時、犬をかりるという事あり。右犬をかりる時は盗難火難に逢う事なしとて、都鄙申し習はす事也。或人、犬を貸候といへど札をくるばかり也。誠の犬をかし給ふ事もなるべきや、・・頼みければ、別当とくに其意祈念して札を附与なしけるに、かの者下山の時ひとつの狼あとへなり先へなり附来る

根岸鎮衛「耳嚢根岸鎮衛 耳嚢




現代では意味内容は変わってしまったものの、「送り狼」という言葉が残っています。

三峯神社参拝を終えて参道を戻るとき、一の鳥居までは後ろを振り返ってはいけない、神使である狼があとをついてきているから、というタブーを何かで読んだことがあったのを思い出したのは、わが家へ帰ってきてからのこと。

ふと振り向いて撮った写真のどこかに、いまは絶滅してしまったはずのニホンオオカミが「あとへなり先へなり附来る」姿が写っているような気がして、景色の中にそのまぼろしを探してしまいました。


三峯神社の参道

三峯神社の参道 狼の姿を探してみましょう。










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美術手帖の伊勢神宮特集

2009/07/30 01:26



本屋さんの雑誌コーナーに立ち寄ってみると、「美術手帖」2009年8月号で、先日ぼくらが初めて参詣したばかりの伊勢神宮が特集されているのが目にとまりました。





さっそく手に取ってみると、表紙をはじめグラビア・ページでは女優の香椎由宇さんが、清らかな景色の中にミステリアスな独特の雰囲気を漂わせている写真が美しく、ぼくの記憶にも新しい伊勢神宮の風景があざやかによみがえってきます。

記事はさらに、100ページ近くにもわたって神宮のこと、式年遷宮と建築様式のこと、神話と神道のことなどがすっきりとまとめて解説されていて、ガイド的にも手頃な内容のようでした。


「伊勢神宮と神々の美術」」スタッフ・ブログ


この特集企画も、ちょうどぼくらが参宮したその同じ週から上野の国立博物館で開催されている「伊勢神宮と神々の美術展」にちなんでのものですが、期せずしてこんなふうに世間的にも伊勢神宮が注目されてきていることを、なんだかちょっとうれしく思います。


「美術手帖」といえば、創刊60年をこえる老舗美術雑誌。かつてはぼくもときどき興味のある特集をチェックして読んでみたりもしていたものですが、現代アートに特有の、古い言葉ですがポスト・モダンな雰囲気の、スカスカな空気だけでお腹いっぱいになってしまうような感覚が苦手な気がして、もうずっと長いこと遠ざかってしまっていたので、今回手に取ってみたのはもう10年ぶりくらいのことだったかもしれません。

そんなポスト・モダンな感触がきれいに払拭されていると思えたわけではありません。けれどこと伊勢神宮に関しては、それでもいいような気がしてしまいました。

伊勢神宮 参拝の印象」に書きとめておいたように、ぼくがお参りをして何よりも強く感じたのは、いまもはっきりと脈打っている神宮の「生命力」でした。

ギリシャのパルテノンをはじめ、世界の多くの神殿がいまでは廃墟となって息絶え、信仰の対象ではなく、美術鑑賞のモチーフとなって現存しています。

けれど神宮はそうではありません。

その慕わしくたおやかなたたずまいの中に息づいている生命力は、きっと表層の魅力だけをなぞろうとする現代日本人のたましいをもそのふところに取り込んでしまうにちがいないと、現実に参拝をすませたばかりのぼくは確信することができるのですから。



伊勢神宮 内宮 御稲御倉

伊勢神宮 内宮 御稲御倉









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伊勢神宮 参拝の印象

2009/07/20 13:58



伊勢神宮内宮拝殿前



大正13年に伊勢の神職の家に生まれ國學院へと進んだ歌人で国文学者の岡野弘彦さんが、若き日に師事した釈迢空・折口信夫博士との思い出を記した「折口信夫の晩年」という著作を、ぼくは単なる回想記にとどまらず、ひとつのすぐれた文学的価値のある稀有な作品として何度も何度も繰り返し愛読していて、これまでにも何度か引用してきました。

いまでは中公文庫版も品切となってしまっているようですが、どの頁を開いても印象的なエピソードがこまやかな筆致で描かれているこの本のなかでも、特に緊張感のあふれる描写で惹き付けられるのが、昭和25年、折口信夫がその師である柳田國男のお供をしての関西へ旅行した際の記録です。

その中に、柳田翁が伊勢神宮の職員の方々との座談会で語ったという、次のような言葉が書き留められています。

「私の家は播州の三代続いた医者の家です。父は本を読むことが好きで、国学の勉強もしたようです。野々口隆正の影響を受けたと思われます。その父は一生に一度は伊勢参りをしたいと思っていたが、貧しくてそれが果たせませんでした。私の母もまた、伊勢にお参りできないまま一生を終わりました。安政四年の抜け参りのときに母は十六で、近所の女の子と一緒に出かけたけれども、母方の祖父が厳格な人で、途中から連れもどされて、それきりになりました。
私がはじめて参宮をしたときは、何よりも自分の親が一生お参りできなかったのだということが身に沁みました。いま皆さんは、全国の人が皆、思いたったときに参宮できるように思っていられるかもしれないが、実際はそうではないのです。一生、参りたくても参ることのできない人が、日本人の中にまだ沢山いるのです。そのことを、これからの神道は考えてゆかねばなりません。」



伊勢神宮内宮拝殿前



伊勢神宮参詣前夜に記したように、ぼくの個人史の中で伊勢参宮は子供のころからのあこがれで、それは現実の地であるというよりもほとんど神話と歌物語のファンタジー・ワールドでした。

その伊勢神宮へと生まれて初めてたどり着き、様々な感慨が心に浮かぶ中でとりわけ強く感じたのは、そのあこがれはぼくひとりだけのものではなく、遥かな古代からいま現在にいたるまで、気が遠くなるほどたくさんの日本人と通じ合っていたのだという実感だったのです。

徳川時代よりも前の天正13年(1585年)、すでにルイス・フロイスというポルトガル人は、こんな記述を残しています。

「日本諸国から巡礼として天照大神のもとに集まる者の多いことは信じられない程で(…中略…)男も女も競って参宮する風習がある。伊勢に行かない者は人間の数に加えられぬと思っているかのようである」

日本史―キリシタン伝来のころ (1) (東洋文庫 (4))


三連休の土日とはいえ、特別なお祭りなどあるわけでもない平凡な一日、どこからか絶え間なくやってきてはお参りに詣でる人々の連なりが途切れることなく続き、まるでおかげ参り・抜け参りが大流行した幕末頃に描かれた錦絵に見られる群衆そのままのようすを目の当たりにできたこと。

そしてぼくもまたその中のひとりに加わることができたこと。

伊勢御遷宮参詣群衆之図(玉蘭斎貞秀・神宮徴古館所蔵)

伊勢御遷宮参詣群衆之図 玉蘭斎貞秀・神宮徴古館所蔵




ぼくのなかでほとんど幻想的なまでにイメージの中の神話的空間だった「伊勢神宮」が、こうして連綿と連なってきた「日本人」の共同幻想であったこと、それは書物で得た知識としてはあったけれど、現実にそれがいまだに力強い生命を保っている中に身を置いて、400年も前の耶蘇教の宣教師ではありませんが、なんだか信じられないような気持ちになってしまわずにはいられません。

この簡素な、掘立て柱・茅葺き屋根の、弥生時代の高床式倉庫そままのようなお宮の、異様なまでの生命力はいったいなんだろう?


何ごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
西行


伊勢神宮のとうとさを語るときにかならず引かれるこの歌ですが、800年のむかし、あえて神嘗祭という御祭日に詣でた西行法師が神宮についての知識を待たなかったとは思われません。

けれどその生命力の謎への、深まるばかりの興味を抱いて上の句を詠んだにちがいない、ということがわかりました。

その謎の前には、西行法師や松尾芭蕉のような詩人たちも、柳田國男の実父・松岡約斎翁のように国学をこころざした人々も、近所の女の子と盲目的に伊勢の地を目指そうとした御一新前の少女たちも、柳田國男や折口信夫のような明治生まれの知の巨人たちも、戦後教育の中で神話を奪われて育ったぼくらの世代も、みんな童子のようにただ不思議さに好奇心をそそられながら感じ入ってしまうばかりなのです。

ここは心のふるさとか そぞろ詣(まい)れば旅ごころ うたた童(わらべ)にかへるかな
吉川英治



伊勢神宮外宮 蝉の脱皮



外宮への参拝をすませると、境内の樹木にちょうど古い殻から脱皮しようとしているセミを見つけました。

せめて一生に一度でも、と夢見ていた参宮はぼくにとってもそんなふうに得難い体験で、これまで生きてた殻を脱ぎ捨てて幼いころに返り、新たに再生するような気持ちでした。

それはまるで、式年遷宮によって新しく生まれ変わる神宮そのもののように。


伊勢神宮内宮荒祭宮

伊勢神宮内宮荒祭宮 右手の空間が新たに遷宮される予定の御敷地
















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伊勢神宮参詣前夜

2009/07/18 01:24



伊勢神宮



6月のイベント「黄金ノ國ノ夜明ケ」で行われたsmall designのTシャツ・ワークショップでシルクスクリーン・プリントしてみた上のイラストは、数年前に伊勢神宮の式年遷宮シンボルマーク公募が行われた際、自分なりに子供のころからのあこがれだったこの皇大神宮のイメージを図案化してみたものです。


天の岩戸の日食神話
天照大御神(あまてらすおおみかみ)と大日孁貴神 (おおひるめのむちのかみ)。
御饌の神としての等由気大神(とようけのおおかみ)。


倭建命と倭姫命。
大津皇子と大来皇女。


河の上の ゆつ岩むらに 草むさず 常にもがもな 常処女にて

吹黄刀自が詠み奉ったというこの歌は万葉集の歌の中でも特に印象深いものですが、これも十市皇女が伊勢神宮へ赴いた時のものでした。


そんな古代の文学を通して長い間夢見てきた伊勢神宮への参詣に、生まれて初めて、いよいよ明朝旅立ちます。


太陽と稲の神殿―伊勢神宮の稲作儀礼伊勢神宮に仕える皇女・斎宮跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)












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