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みんなの「歴史」ブログ


柳田國男「遠野物語」の100年

2010/06/04 08:02



2010年6月、柳田國男の最も有名な著書「遠野物語」が刊行されてからちょうど100年。

明治43年6月、自費出版でわずか350部ほどが刷られたというこのささやかな東北の小都市の説話集が、柳田國男という近代日本を代表する知の巨人の原点となり、日本民俗学はもとより、この1世紀にわたって思想・文学の世界にどれほどの影響をおよぼしたことか。

そしてぼく個人も、もしこの一冊との出会いがなかったら、などということがもう想像することさえできそうにありません。


遠野物語・山の人生 (岩波文庫)




「遠野物語」についてはもう10年以上前、すでにフリーペーパー文化誌「献血劇場」誌上に連載していた「雨の日の女」で取り上げたことがありました。

「雨の日の女」その29 柳田國男「遠野物語」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kenketsu/rainyday_29.html

そのときも触れたように、ぼくにとって最初の「遠野物語」との出会いはたしか学校の国語の教科書で、次の一話だったと記憶しています。



小国(をぐに)の三浦某といふは村一の金持なり。
今より二、三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍(ろどん)なりき。
この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿ひて蕗(ふき)を採りに入りしに、よき物少なければしだいに谷奥深く登りたり。
さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。
いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くをり、馬舎ありて馬多くをれども、いつかうに人はをらず。つひに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀(ぜんわん)をあまた取り出したり。
奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。
されどもつひに人影なければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。
この事を人に語れども実(まこと)と思ふ者もなかりしが、またある日わが家のカドに出でて物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて来たり。
あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。
しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。
家の者もこれを怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。
この家はこれより幸福に向かひ、つひに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガといふ。
マヨヒガに行き当たりたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。
女が無慾にて何物をも盗み来ざりしがゆゑに、この椀みづから流れて来たりしなるべしといへり。



ここに描写されている光景が、子供心に何故か異様に印象に残ってしまったこと。

それがすべてのはじまりだったのですが、同じ頃、また別の本で読んだ一節がどこかこれと通じるような気がして、記憶に刻みこまれています。



故、避追はえて、出雲国の肥上河上なる鳥髪の地に降りましき。此の時に、箸其の河より流れ下りき。
ここに、須佐之男命、其の河上に人有りと以為して、尋ね覓ぎ上り往かししかば、老夫と老女と二人在りて、童女を中に置ゑて泣くなり。
爾、「汝等は誰そ。」と問ひ賜へば、其老夫答へて言しけらく、「僕は国神大山上津見神の子なり。僕の名は足上名椎と謂し、妻の名は手上名椎と謂し、女の名は櫛名田比売と謂す。」と、まをしき。



古事記 (岩波文庫)


「古事記」上巻、八岐大蛇退治の序章です。

天津罪を負って高天原を追放された須佐之男命。
とりかえしのつかない喪失感を抱えてたたずむ川辺に流れてきた箸。
上には人がいる、という圧倒的な孤独の中の一縷の希望。
分け入った山の中で出会った老夫婦と少女。

数ある名場面に彩られた日本神話のなかでも、思い返すたびに心の襞に深く深くしみこんでくるような気がしてしまうこの情景を、ぼくは偏愛せずにいられません。

そしてそんな感覚が、「遠野物語」のマヨヒガを読んだ時のそれと重なり合うような気がする。

それはまた、歌の別れを決意し自然主義の勃興する中央文壇から放逐され、辺境の地に息づいていた物語に出会って「其の河上に人有り」と感じたままにこの書を綴った柳田國男、かつての抒情詩人松岡國男その人の姿が須佐之男命に連なる「流され王」の系譜に重なるということかもしれません。

ようするに、ぼくにとっての「遠野物語」は近代日本文学が生んだ「神話」だったのです。


年表をひもとくと、1910年は日韓併合の年。そして「遠野物語」が出版された6月は、大逆事件で幸徳秋水らが検挙された月。

そんな政治と社会の情勢の中で、その序文で「要するにこの書は現在の事実なり」 と宣言した「遠野物語」という神話。

そしてもうひとつ、1910年と聞いて思い起こされるのは、地球がハレー彗星の尾の中を通過するということで、世界の終末までが取り沙汰されたというおはなしです。

76年周期で太陽をめぐるハレー彗星が次に観測された1986年、中学生だったぼくも夜ごと望遠鏡をのぞいてその光芒をながめたものでしたが、そのころには前回のハレー彗星騒動を記憶しているという老人も多く存命していました。

それから、太陽系の彼方へ去ったハレー彗星がさらにその軌道を3分の1めぐったはずの今、あのときの老人たちもほとんどはもうこの世にいないはず。

「神話」との距離を測るのはむずかしい。それで「遠野物語」刊行から100年ということを考えてみても、その時間のパースペクティヴは奇妙に歪んだものに見えてしまいます。

最近、「21世紀になってみると柳田はあまりにも官僚臭が」云々という批判のような言説を目にしました。

けれどそれはむしろ官僚・体制・国家といったものにアレルギーを示す20世紀後半の一時期に特殊な反応ではないでしょうか?


遠野物語



100年目の今、むずかしいことかもしれないけれど、様々なコンテクストの中で多義的な解釈に耐えうるテクスト、神話としての「遠野物語」との距離をもう一度測り直してみたい。

そのためには、まずぼくらの立ち位置そのものを見つめ直すことから始めなければいけないような気がしています。








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小池玉緒の歌う「人形劇 三国志」のエンディング・テーマと"Runnin' Away"

2010/05/18 21:20



支那文学の四大古典小説のひとつ「三国志演義」は、近年の「レッドクリフ」などを例に出すまでもなく、いまなおさまざまな形で作品化されて続けているわけですが、ぼくにとっての「三国志」は、まず中学生の頃に読んだ吉川英治の小説。


吉川英治 三国志(一) (講談社文庫)吉川英治 三国志(二) (講談社文庫)吉川英治 三国志(三) (講談社文庫)吉川英治 三国志(四) (講談社文庫)吉川英治 三国志(五) (講談社文庫)
吉川英治「三国志」(講談社文庫版) 全5巻



正直言って、個人的にはそのドラマツルギーにそれほど魅了されたわけではなく、吉川英治の作品の中では「宮本武蔵」や「新平家物語」のほうを好んで読み返したものです。

あえて言えば、数々の名場面よりもむしろこの長編小説のプロローグにあたる部分で、後に蜀漢を興し昭烈皇帝となる劉備玄徳が、広大な支那大陸に悠久の年月にわたって降り注ぐ黄砂によって形成された黄色い大地と黄河の流れに思いを馳せる中、その「黄」の色を旗印に遼原の火のように広がっていく黄巾の乱のようすを綴った、叙景と抒情と叙事の交錯する描写のほうが、強く印象に残っています。


そしてこれを読んでいた頃、ちょうどNHKテレビで放映されていたのが、現在もその完成度が高く評価されている名作「人形劇 三国志」でした。



人形劇 三国志 全集 一巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 二巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 三巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 四巻 [DVD]
人形劇 三国志 全集 五巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 六巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 七巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 八巻 [DVD]

人形劇 三国志 全集 九巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 十巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 十一巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 十二巻 [DVD]
人形劇 三国志 全集 十三巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 十四巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 十五巻 [DVD]人形劇 三国志 全集 十六巻 [DVD]
人形劇 三国志 全集 [DVD] 全16巻



いまでは全16巻のDVDとなって発売され、30年近く昔の作品でありながら絶賛のコメントが寄せられている作品ですが、当時ぼくがこの番組がテレビで放送されるたびにいつもいちばん楽しみだったのは、実はエンドロールの部分だったのです。



人形劇 三国志 エンドロールのテーマソング



吉川英治「三国志」の冒頭をも思わせる、黄味がかった大地を駆ける騎馬の群像。

同じNHKの「シルクロード」の映像を流用して加工したものとのことですが、その画とあわせて流れる歌と音楽が、たまらなくいい。

まるでラブコメのアニメ・ソングのような歌詞のこの歌が、どうしてこんなに感性を揺さぶってくるのだろう?と、我ながら不思議に思っていたものです。

もちろん、ぼくも時代の子なので、当時流行していたYMOを聴いていなかったわけではありません。

けれど、やがてニール・ヤング経由ではっぴいえんどを聴くようになり、そのソロ活動の変転と系譜をたどるようになってから、たまたま再放送で「人形劇 三国志」を見ていて、その音楽のクレジットに「細野晴臣」の名を見つけて、ものすごく納得してしまったのは、それから数年後のことでした。





この「三国志ラブ・テーマ」を歌った小池玉緒という人のことを、すっかり忘れてしまっていましたが、やはりYMOと絡んで「鏡の中の10月」という曲をリリースしていたり、いくつかのテレビCMに出演したりしていたそうです。

そんな彼女の未発表トラックがYou Tubeにあるのを、たまたま大好きなスライ&ザ・ファミリー・ストーンの傑作アルバム「暴動(There's a Riot Goin' On)」の収録曲"Runnin' Away"を探していて、見つけてしまいました。



You Tube 小池玉緒 / ラニン アウェイ (1983)



もとより、このカバー・ヴァージョンの方がいい、などと言うつもりはありません。

というのは、原曲があまりにも最高だからです。





けれど、オリジナルの歯切れがよくキュートで小粋な感じを絶妙にやわらかくアンニュイな雰囲気に傾斜してみせて、独特な雰囲気を作り出すことに成功した佳い出来だと思います。







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不思議の国の甲賀三郎と春日姫 - 諏訪大社の御柱祭によせて

2010/05/08 17:58



2010年、平成22年は数えで7年目ごとに行われるという諏訪大社の式年造営御柱大祭の年。


諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町
諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町



日本三大奇祭の筆頭に上げられるこの勇壮なお祭りは、4月には上社山出し〜下社山出し、5月のはじめに上社里曳き、5月7日には下社宝殿遷座祭が営まれ、今日5月8日からは下社里曳きがはじまり、今回も痛ましい事故で幾人かの死傷者を出しながらも、大きな盛り上がりを見せているとのこと。

ぼくは残念ながらそのお祭りに参加することもできず、ただニュース映像やライブ動画配信などでそのもようを観ながら、諏訪明神の信仰について思いをめぐらせてみました。




全国に五千以上の分社となる諏訪神社の総本社であり、日本国土の中心に位置するとも言われる信州・諏訪湖の北に下社の春宮・秋宮、南に上社の本宮・前宮の二社四宮を配する諏訪大社。

御柱祭りを筆頭に、諏訪湖の御神渡、耳裂鹿の生贄、あるいは人身御供としての一年神主の伝承などなど。

いくつかの特殊神事できわだった特色が見られるその「お諏訪さま」の信仰は、有史以前に起源を持ち、正確には探るすべもなく、様々な謎に包まれた複雑怪奇なもの。

古事記の記述により、御祭神は国譲りの際にこの地まで追いつめられて服従した建御名方命(たけみなかたのみこと)とされてはいますが、現実の地元諏訪地方の信仰にも神事の内容を記した古文書にも、どうもこの出雲神話の神が重視されているようすは見られず、むしろ縄文時代以来のミシャグジ信仰に由来するものとの解釈が有力なようです。

けれど、ぼくが諏訪明神と聞いてまず思い浮かべるのは、中世に安居院の神道集として編纂された本地垂迹説話集に書きとめられた「諏訪縁起事」に登場する、甲賀三郎と春日姫の伝説なのでした。




安寧天皇より5代の子孫、近江国甲賀権守の三人の子の末子である甲賀三郎諏訪(よりかた)が、大和国を賜り春日姫なる美姫を娶るも、伊吹山の天狗にさらわれて行方を失った春日姫を求めて分け入った蓼科山の人穴から、維縵国へ至る七十余国の地下世界を経巡り、再び地上に現れたときには長い年月の過ぎ去ったあと。身は蛇体となってたものの仏僧の語る話のおかげで人の姿に戻り、三郎の兄・次郎諏任に奪われようとしていた春日姫とも大和の三笠山で再会。その後、支那の平城国に赴いた後に日本に帰り、三郎は信濃国岡屋の里に諏訪大明神の上宮として顕れ、春日姫は下社の神として顕れた、というあらすじ。


このおはなしは室町時代の「神道集」に記されたばかりではなく、各地の民譚や浄瑠璃など、文献を離れたところでもさまざまなバリエーションとなって口承文芸の世界で生き続け、多くのひとびとに諏訪明神のファンタジーとして愛されてきた形跡が明確に認められます。

迷い込んだ地下の不条理な世界での、シュールレアリスティックな冒険物語。

突飛な空想かもしれませんが、この物語が、ぼくには「2010 年のアリス・イン・ワンダーランド」の頁を書いて以来何度も読み返しているルイス・キャロルの童話「不思議の国のアリス」に描かれた、うさぎ穴に落ち込んだアリスの不思議の国に通じるような気がしてしまうのです。





古代の信仰の遺跡としてばかりではなく、中世から近世へそして現在へと、信濃の諏訪地方はもとより、各地で甲賀三郎の冒険譚をよすがに諏訪明神信仰を伝えてきた人々の心の中も、まるで「アリス」の物語に夢中になってしまう子供のような好奇心でいっぱいだったのではないでしょうか?


そしてもうひとつ、「不思議の国のアリス」を読んで、うさぎを追って穴に落ちて行く少女の物語を読んで連想させられるのは、出雲神話の大国主命のおはなし。

因幡の白うさぎを助けた童話めいた神話で知られる大国主命は、その後兄神たちの虐めを逃れて須佐之男命(すさのをのみこと)の住む根の国へ赴き、そこで須佐之男命の策略に陥れられ、放たれた火に囲まれたとき、「内はほらほら、外はすぶすぶ」というネズミの声にしたがって地面の下の穴に入り込み隠れることができた、という地下の国をモチーフにした冒険譚です。

諏訪大社の御祭神・建御名方命は大国主命の子、などという系譜の上の図式ばかりではなく、この上代の出雲系の神話は、根の国・地下世界の遍歴と通過儀礼としての幾多の試練という構造と、兄たちによる末子の虐待、妻問いなどの諸々の要素で、遠く中世の甲賀三郎の諏訪本地とどこかでつながっているのかもしれません。

ぼくはそのことが、その二つの物語の間に「不思議の国のアリス」のイメージを介在することによって見えてきたような気がするのです。


諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町
諏訪大社下社 春宮, 長野県下諏訪町



須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりひめのみこと)を連れて根の国から去って行く大国主命に、須佐之男命は「底津磐根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽たかしりて居れ」という言葉をかけました。

大祓詞など多くの古典にも登場するこの成句を思うと、「柱」という日本神道の重要な呪物は、天にそびえる神さまの依り代でもありますが、むしろ底津磐根、すなわち地下世界との関わりこそが注目されてきます。


諏訪大社の御柱と、伊勢神宮の神秘の核心のひとつでもある心の御柱。

あるいは高天原の神話と出雲神話、ミシャグジ信仰と中世の説話の蛇体の神。

そのほんとうの姿を見定めるには、ぼくらの持つ好奇心を全開にして、深くリゾーム状に入り組んだ地下水脈をたどるように民俗の伝承と民族の潜在意識に分け入って行かなければならないのかもしれません。








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鎌倉 鶴岡八幡宮 大銀杏の樹の新芽とひこばえ

2010/05/04 18:06




ぼくは東北地方の出身でもあり、判官びいきでもあるので、義経追討と奥州征伐を行った鎌倉幕府の初代征夷大将軍・源頼朝という人物に対しては、必ずしも好感情を持っていませんでした。

けれど昨年、伊勢神宮への参拝にあたって所功著「伊勢神宮」(講談社学術文庫)を読んでいると、武家政権の基を築いた頼朝公が母方(熱田神宮大宮司)の影響もあって、早くから神社崇敬の念を持っていたことが幸いし、中世以後も神宮の式年造営の継承を可能にした、という歴史を教えられました。






考えてみると、鎌倉という街は実に不思議な街。

三方を山に囲まれ海岸に南面し天然の要塞となる鎌倉市街の都市設計は、支那風の都城に倣った平安京の流れを汲み、中央に若宮大路を敷設しているのですが、京の朱雀大路の果てには天子さまの住まわれる大内裏があるのに対し、この街の極には鶴岡八幡宮という神社、すなわち神さまのお宮があります。

つまりこの鎌倉という都市は、武力によって打ち立てられた新政権の府でありながら、その中心は覇者の住居となる城郭でも政務機関でもなく、八幡さまの神社の門前町として都市設計されていたのです。

このことがその後700年、日本の歴史の半ばを占める武家政治の性格をかたちづくっているのかもしれません。

鎌倉市街の地図を見るたびに、「日本は神の国」ということははるか2600年のむかしにさかのぼってのことだけではなく、中世の歴史にもくっきりと刻み込まれているのを目の当たりにさせられるような思いがするのです。






4月のある日、その鶴岡八幡宮に参詣。ぼくにとっては15年ぶりのお参りでした。


鎌倉 鶴岡八幡宮の御朱印とおみやげの鳩サブレー・クリップ
鎌倉 鶴岡八幡宮の御朱印とおみやげの鳩サブレー・クリップ



子供のころから「義経記」などを愛読して育ったぼくには、鶴岡八幡宮の舞殿を見れば、「しづのをだまき」の歌を詠いながら舞を奉納した白拍子、静御前のまぼろしを思い描かずにはいられません。






鶴岡八幡宮 舞殿



そして本宮へと向かう急斜面の61段の大石段、向かって左手にそびえる樹齢千年の大銀杏の樹は、「金槐和歌集」の万葉調の歌でも名高かった右大臣実朝を暗殺した公暁の隠れ銀杏と伝えられ、この八幡宮のシンボルでもあり、源平盛衰の帰結としての清和源氏嫡流の滅亡、そしてそこからはじまる800年の歴史の象徴でもありました。





そんなシンボリックな銀杏の大木が2010年の3月10日未明、強風に煽られて倒壊してしまったというニュースは、すぐには信じがたく、あのイチョウの木がない鶴岡八幡宮というものをイメージすることすら困難でした。


源実朝ゆかりの「隠れ銀杏」折れる
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/366898/



当初は回復も不可能、と報じられていた大銀杏。


倒壊鎌倉大銀杏「回復は不可能」 県が輪切りなどでの保存を要請
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/367305/



けれど4月になって、大銀杏の根元から、小さな新芽が顔を出し、移植された幹からもひこばえが伸びはじめたという報道が。


鶴岡八幡宮の大銀杏の根元に新芽
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/375666/



ぼくらが訪れたのは、4月23日の金曜日。

いつまでも冷たさが残る、春とは思えない雨の中。

それでも倒れてしまった銀杏の根元からは、いきおいよく緑が芽吹いているようすを見ることができました。


鎌倉 鶴岡八幡宮 倒壊した大銀杏の根元の新芽
鎌倉 鶴岡八幡宮 倒壊した大銀杏の根元の新芽



この若々しい緑の中に、次の世代の大銀杏に育つ新芽がまじっているとするならば、ぼくらは1000年の寿命を生きて歴史を見つめる大銀杏の、ちょうど代替わりに遭遇しているのかもしれません。


静御前の舞った舞殿も、公暁の隠れ銀杏も、鎌倉初期のものがそのまま現在のものではないという説もありますが、歴史を思う縁としてのその存在は何ものにもかえがたいものだと思うのです。

伊勢神宮が式年遷宮を繰り返すことによって再生をし続けていることに象徴されるように、日本の神社というものは単なる古物の博物館ではなく、生命力を持ったまま生き続け、再生していくものなのですから。

そうして大石段の上から雨に煙る街並みと海を眺めながら、いまから800年の後、1000年の後、この鶴岡八幡宮と鎌倉の街はどんなふうになっているだろう?と思いを馳せてみました。


鎌倉 鶴岡八幡宮境内にて
鎌倉 鶴岡八幡宮境内にて



鶴岡八幡宮境内、本宮の脇にそれたかたすみにて写真を一枚。

15年前、同じ場所で撮影した写真がこちらのページに掲載されています。

「雨の日の女」その37*番外編 「牛若丸」と「日本武尊」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kenketsu/rainyday_37b.html



この15年の歳月の中で、ぼくの中でも一度は折れてしまったけれど、何か新しいひこばえのようなものが芽吹きだしているような気もするのです。












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杉並大宮八幡宮 - 小さいおじさんの妖精が棲む神社の都市伝説

2010/04/25 00:42



近ごろ広まった都市伝説のひとつに「小さいおじさんの妖精の棲む神社」があって、そこへお参りをした芸能人がその「小さいおじさんの妖精」を連れ帰った、などという発言をして話題になっているということを聞きました。


テレビ都市伝説『小さいおじさん』の謎に迫る
http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20080908/Cyzo_200809_post_921.html

「小さいおじさんの妖精」が住む神社? 東京・杉並区「大宮八幡宮」には天女目撃談も
http://www.myspiritual.jp/2010/04/post-1291.html



怪異譚の類いは好きですが、昔からぼくは幽霊とか妖精など本気で信じるつもりはまるでありませんでした。

ましてやコナン・ドイルがだまされたコティングリーの少女と妖精のどう見ても合成でしかありえないインチキ写真にうっとりして、「わたしも小さな妖精に出会ったことがあるんです」などと語る不思議少女に対しては、「寝言は寝て言え」という言葉しか出てきません。





ぼくが直接聞いた体験談の中ではただひとつ、東北のある旧家で幼いころ甲冑を着た武士のまぼろしを見たことがあって、後になって気づいたのはそこが盛岡市前九年という地名がいまも残る1000年前の古戦場跡だった、というおはなしのことだけが、なんだか妙に気になっていました。

思えば、ようするにぼくが関心を寄せる怪異とは、超自然現象ではなく、民俗の潜在意識に眠る共同幻想の具現としてのそれだったのです。


画像
杉並 大宮八幡宮 御朱印



上のリンク先にもあるように、テレビではあえて「東京の中心の神社」などとぼかした表現だったそうですが、件の「小さいおじさんの妖精が棲む神社」は「東京のへそ」というキャッチコピーを持つ杉並の大宮八幡宮にまちがいないだろうと、ほぼ特定されているようです。

そんなわけで、まだ行ったことのない神社を訪れたいというぼくと、ふだんは神社などへお参りすることもないけれど心を清めてみたいという知人と、せっかくだからこの噂の杉並の大宮八幡宮へ参詣してみようということになりました。


大宮八幡宮 神門
杉並 大宮八幡宮 神門



武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれた杉並の大宮八幡宮は、いただいた御朱印にも「武蔵國八幡一之宮」とあり、東京都内で3番目の広さの境内を持つ大きなお宮。

東京の八幡宮と言えば江戸最大と言われる深川の富岡八幡宮のイメージが強かったので、比較的なじみの深い杉並区にこんな立派な神社があったことに、今回あらためて気づかされたのです。


杉並大宮八幡宮の御由緒をひもとくと、源頼義・義家父子による前九年・後三年の役にころに京都・石清水八幡宮より勧請されたことに由来するとのこと。

さらにこの付近には、古墳や先史時代の祭祀遺跡も見られ、神社の創建よりもはるかに遡る太古からの聖地でもあったもようです。


杉並 大宮八幡宮 祓所
杉並 大宮八幡宮 祓所



もとより、流行のパワースポットの話題作りでしかないかもしれない「小さなおじさんの妖精」などという都市伝説の謂れを真面目に詮索しても詮無きことだとは思うのですが、あえてそのイメージの源泉はどこにあるのか、思いをめぐらせてみました。


そこですぐに思い浮かぶのは、アイヌの伝承に登場する小人「コロポックル」のイメージ。

明治時代にわが国の黎明期の人類学界で大論争となった「コロポックル論争」を思い起こすと、小さき人とはアイヌ〜古代の蝦夷に連なる先住民の幻影なのかもしれません。


もうひとつ、日本神話の中に登場する小さな神さまといえば、常世の國からやってきて大国主命の国造りに力を貸したという少彦名命(すくなびこなのみこと)。

神産巣日神(かみむすびのかみ)の指の間からこぼれ落ちるようにして生まれ、ガガイモの殻でできた船に乗ってこの国に現れ、粟の茎にはじかれてまた常世の國へ去ったという小人神のことです。

この大宮八幡宮は八幡さまであるから、出雲神話の少彦名命とは関係がないかも、と思っていましたが、八幡神としてお祀りされている応神天皇へ、御母であらせられる神功皇后が次のような歌を奉ったとあることを思い出しました。

この御酒は わが御酒ならず 酒の司
常世に坐す 石たたず 少名御神の
神壽き 壽き狂おし 豊壽き 壽き廻し
獻りこし御酒ぞ 乾さず食せ ささ



ここには少名御神として歌われているスクナビコナの神。

崇神天皇の御代には、同じ内容の歌が大和なる三輪山の大物主神について詠まれていますが、いずれにしてもそれは国つ神、「国譲り」をしてどこかへ去って行った先住民の存在が強烈に意識された呪術的歌謡にちがいありません。


かつて明確な学術的根拠も曖昧なままにこの国の先住民が小人だったとする「コロポックル論争」が学会で長く唱えられたのにも、この神話と上代史に登場するスクナビコナのイメージが影響していたような気がします。


してみると、蝦夷征伐の功を立てた河内源氏により創建されたという神社に鎮められているであろう東国の先住民族へのおぼろげな印象が、「小さなおじさんの妖精」として、間歇遺伝のように現代の都市伝説にどこか影を落としているのかもしれません。


杉並 大宮八幡宮 拝殿
杉並 大宮八幡宮 拝殿



そんな想像をめぐらせながら訪れた春のうららかな日の杉並大宮八幡宮は、ちょうど安産祈願や子育厄除に吉とされる戌の日でもあり、たくさんの住民に愛される神社として生活の中に息づいているようすがうかがわれました。

もちろん、ぼくには「小さなおじさんの妖精」など感じることができません。

けれど、あるいはここに初宮参り連れられてきた子供たちは、この神域のどこかに眠っているそんなイメージを連れ帰り、いつの日か感じとることができることもあるのでしょうか?


杉並 大宮八幡宮 公式サイト
http://www.ohmiya-hachimangu.or.jp/








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The Times They Are A Changin' - 続 ボブ・ディランの来日公演に寄せて

2010/03/22 23:41



ぼくがボブ・ディランのライブを観たのは1994年、3度目の来日のときのことでした。

そのときの演奏で、いまでも印象に残っているのは、"The Times They Are A Changing"。

「時代は変わる」という、時代が変わっても変わらない真実を歌った1964年のヒット曲を古色蒼然としたたたずまいで歌うボブ・ディランと彼のバンドを観ながら、自分がいま見ている光景が1970年代のローリング・サンダー・レビューなのか、1960年代のグリニッジ・ビレッジのカフェなのか、あるいは中世の漂白の吟遊詩人なのか、古代のユダヤ教の儀式なのかわからなくなってしまうような、異様な感覚におちいってしまったのです。



The Times They Are A-Changin' (Piano Version) - Bob Dylan



子どものころ、この歌をはじめて聴いたときのショックをいまでも憶えています。

このお経のようなのが歌なのだろうか?

へたくそ、とかいうより、そもそもどんなふうにリズムをとっているのか見当がつかない。





後になって、溺れるようにボブ・ディランの音楽を聴き続けて気付いたのは、そのきわめて独特なリズム感こそが誰にも真似のできない彼の本質だったということでした。

あるいはバレエ「春の祭典」の、めまぐるしくリズムが変わる楽曲に困惑するダンサーたちに、さらに不可解な振り付けを指導したことでついには作曲家ストラヴィンスキーとも対立し、誰にもその天性のリズム感を理解されなかったというヴァーツラフ・ニジンスキーと、その点でも共通するものがあったのかもしれません。



Come writers and critics
Who prophesize with your pen
And keep your eyes wide
The chance won't come again
And don't speak too soon
For the wheel's still in spin
And there's no tellin' who
That it's namin'.
For the loser now
Will be later to win
For the times they are a-changin'.

さあ来てくれ、作家や評論家たちよ
ペンを以って未来を予言する者たちよ
目を大きく見開くんだ
チャンスは二度と来ない
あわてて発言しないことだ
時の車輪はまだ回っている
それがどのように名づけられるか
誰もわからないのだから
今の敗者も後には勝者になる
なぜなら時代は変わるものだから



「時代は変わる」の歌詞を読んでみると、たとえば1913年の初演時に想像を絶する嘲笑と罵倒をうけながら、結果的に20世紀芸術史上の画期とも評価されることになった「春の祭典」のことに思い当たります。

当時フォーク・ソングとりわけプロテスト・ソングを支持していた人々といえば、ようするにスクエアな左翼だったわけで、1950年代の赤狩り以来虐げられてきた日本で言うところの「進歩的知識人」の立場をこの歌が擁護してくれるように思ったはず。

けれど、1966年の「ロイヤル・アルバート・ホール」でこのユダヤ人の歌手に"Judas"と罵声を浴びせたのは、まぎれもなくその中の一人でした。

自分たちが社会に受け入れられないのはその進歩性のゆえと考えていた聴衆の立場を、「春の祭典」初演時にブーイングを浴びせた半世紀前のパリの守旧派のそれと同じものに転倒し、「どんな気がする?」と歌ってみせるボブ・ディランのパフォーマンス。








1994年に観たボブ・ディランは、「ロイヤル・アルバート・ホール」の戦慄からも、「ローリング・サンダー・レヴュー」の咆哮からも、あまりにも遠くかけはなれた息も絶え絶えの声でボソボソと歌う老人、といった風情でした。

けれどいま思い返すとそのときの「時代は変わる」を歌うディランは、「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」と吟じて諸行無常を説いた平家琵琶の法師のようでもあり、ヘブライの預言者のようでもありました。


変転する歴史の中で、ほんとうの意味でラディカルであることとはどういうことなのか?

もう一度思いをめぐらせずにはいられないのです。







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薩摩の国のアリスたち 〜ルイス・キャロルと島津斉彬の少女写真

2010/01/23 14:02



「不思議の国のアリス」の作者としておなじみのルイス・キャロルこと、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンといえば、その文学の仕事と並んで、黎明期の写真芸術史を彩る数々の作品を残していることで知られています。





なかでも、「アリス」の物語のモデルとなった実在のアリス・リデルとその姉妹たちを写した少女写真のイメージは、150年を経た今もなお、あまりにも印象的なものでした。





その写真集のページを繰っていてふと思いついたのは、彼がこの作品を残した大英帝国のビクトリア朝はちょうど本朝の幕末にあたり、実用化されて間もない写真技術が開国したばかりのわが国に伝来しはじめた頃だったのでは?ということでした。

そして、子どものころ、「日本にはじめて写真機を輸入したのは、鹿児島薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら)という大名で、その肖像写真が日本初の写真でした」、ということを啓蒙的な科学技術の歴史の本で読んだことがあるのを思い出したのです。


島津斉彬
贈正一位 島津齋彬公 1809-1858



日本の武家の中でも屈指の名門で、「島津に暗君なし」と謳われた歴代の当主の中でもとりわけ名君として知られ、集成館事業を興し富国強兵をなしとげ、下級武士出身であった若き日の南洲翁・西郷隆盛吉之介らを登用し、明治維新と近代日本の礎を築いた島津斉彬という方は現在、照国大明神として鹿児島市に鎮座する照国神社にお祀りされています。

順当に行けば徳川の天下に取って代わり、ことによると「島津幕府」を開くこともできたかもしれない大人物であったと、いまは思います。

けれど、ぼくが最初に島津斉彬の名を知ったのは、当時ヨーロッパでも最先端機器であったカメラを輸入し、写真撮影に凝ったハイカラ好きなお殿様としてであって、いまだにちょっとそのイメージが残っているのです。

厳密には、尚古集成館所蔵の1857年の島津斉彬肖像写真より少し前、二度目のペリー来航時1854年に撮影されたという浦賀奉行与力・田中光儀像が日本最古の写真として平成18年に重要文化財の指定を受けていますが、日本人としてはじめてカメラを手にしたばかりの島津斉彬公は、他にいったいどんな写真を残しているのでしょう?

好奇心がわきおこって調べてみると、こんな画像を見つけました。




島津斉彬みずから撮影したものと伝えられるこの3人の少女の写真は、斉彬公の娘たちの肖像で、左より典姫(のりひめ)、暐姫(てるひめ)、寧姫(やすひめ)。

一昨年、宮アあおい主演の大河ドラマでその名が知られた天璋院篤姫は島津斉彬公の養女となった方なので、写真の少女たちは篤君の妹たちということになります。

さらには、今上天皇陛下の母方の祖母にあたられるお方が斉彬公の養子となった薩摩藩最後の藩主・島津忠義公爵の令嬢であったというご縁故からも、彼女たちが日本でもとびきり高貴なお姫様であったことがうかがえます。

撮影されたのは1858年頃、つまり海の向こうのイングランドでルイス・キャロルがリデル家の姉妹たちを写真に収めていたのとちょうど同じころです。

アリスとまさに同時代の、同じくらいの年頃の少女たちのあどけない表情が、薩摩の国で写真に写されていたこと。

そしてそれが日本写真史の最初のページに残されていたことに、なんだかちょっと不思議な気持ちになってしまいました。








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坂本龍馬をお祀りする神社

2010/01/11 19:14



【坂本龍馬についてのノート その3】




坂本龍馬をお祀りする神社といえば、平成10年11月に高知県佐川町の龍馬公園内に設けられた「佐川龍馬神社」という小祠があり、平成19年にはこれが岐阜県中津川市の坂本八幡神社にも神職の方の熱意によって分祀が実現した、ということで、近年の人気の高まりを感じさせられます。

けれど、すでに明治の初年から、日本の東西にひとつずつ、坂本龍馬をご祭神としてお祀りする立派な神社があることをご存知でしょうか?





ひとつは、京都東山の霊山護国神社。ここには慶応3年に暗殺された龍馬を葬った墓があります。

京都霊山護国神社といえば、維新を目前にして倒れた志士たちの御霊をお祀りせよとの明治天皇の詔を奉じ、明治元年に創建された日本で初めての招魂社。

その起源は坂本龍馬生前の文久2年、殉難志士の神葬祭がこの地で行われたことにさかのぼると言われています。

もうひとつは翌明治2年、東京九段に創建された東京招魂社にも、維新殉難者の一柱として坂本龍馬命がお祀りされることとなりました。

すなわち、現在の靖国神社です。


靖国神社・護国神社といえば、圧倒的多数となる先の大戦の戦死者を顕彰する神社としてのイメージが強く、その歴史に蒙い方々には、いわゆる戦犯として刑死した昭和殉難者とともに龍馬のような幕末の英傑が合祀されていることに違和感を持たれるかもしれません。

しかし、前頁・前々頁でも触れたとおり、大東亜戦争を黒船来航以来の東亜百年戦争の帰結とする歴史観から見ればそれはごく自然のことなのです。


阿片戦争による東アジアの華夷秩序の崩壊の余波を受け、砲艦外交によって不平等条約体制に編入された日本国を万国公法の適用される文明国とするためのたたかい。

それは近代国際法をヨーロッパ・キリスト教国のみを文明国とする二重基準から解き放ち、普遍的な法の真理として世界に平等な秩序をもたらすものに昇華するための闘争とならざるをえなかったはず。

そしてその向かうところがアジアの解放の大義を掲げた大東亜戦争であったことは、歴史の必然でした。


万国公法を武器に「小攘夷」から「大攘夷」への転換を模索、天皇を中心とした国民国家を構想し、薩長同盟・大政奉還・船中八策といった御一新への布石を敷いた勤王の志士としての坂本龍馬。

昭憲皇太后の霊夢に現れて日露戦争を勝利に導いた憂国の志士としての坂本龍馬。

志なかばに凶刃に倒れ、護国神社・靖国神社にお祀りされる御霊となった坂本龍馬。

ここでそのすべての龍馬像は、ひとつにつながるものとして総合的に捉えることができるのです。





京都霊山護国神社と東京の靖国神社には、ともに極東国際軍事裁判でその裁判自体の不法性を弾劾し日本無罪論を開陳したラダビノード・パール判事の顕彰碑があります。

国際法の尊厳を訴え、後に世界連邦の実現による平和を唱えたパール判事もまた、戦勝国が正義を蹂躙するような不条理と戦ったアジアの同志であったのかもしれません。

けれど、坂本龍馬らが命を賭してはじめた東亜百年戦争の帰結としての大東亜戦争、その結末は国際法を無視し、あまつさえ「法の真理」を土足で踏みにじるような復讐劇である東京裁判でしめくくられてしまいました。

ぼくらの時代は、その東京裁判史観の呪縛の中にあり、そこでは「坂本龍馬」という思想はまるで意味不明なものとなってしまいます。

司馬遼太郎が描く「竜馬」でさえも、それが現代のぼくらとどう結びつくかという問いには答えようのない、一個のよくできたフィクション、それ以上でもそれ以下でもありえません。

ましてや史実のトリビアの中に坂本龍馬の身辺些事を掘り起こし、身近な人物像として再構成してみせたところで、それが何になるのか?ぼくにはまったく興味がありません。


広島市中区小町の本照寺というお寺には、広島平和公園の『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』という碑文の欺瞞に憤慨したパール判事が、それに代わる碑文を、と乞われて起草したという格調高い詩が刻まれた「大亜細亜悲願之碑」があります。

For the peace of those departed souls who took upon themselves the solemen vow at the salavation ceremony of oppressed Asia, "OH! Lord, thou being in my heart,
I do as appointed by you"

1952.11.5 Radhavinod Pal

激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の思いを抱いて 死んでいった
しかし 大地深く打ちこまれた
悲願は消えない

抑圧されたアジアの解放のため
その厳粛なる誓にいのち捧げた
魂の上に幸あれ

ああ 真理よ
あなたは我が心の中に在る
その啓示に従って我は進む

一九五二年一一月五日
ラダビノード・パール



本照寺檀家出征兵士及び原爆被災者へ捧げられたというこの言葉を、ぼくはそのままこの道一筋につらなる坂本龍馬命の英霊にも手向けたいと思うのです。



<< 【坂本龍馬についてのノート その1】・「坂本龍馬と昭憲皇太后の夢」
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リメンバー・パール判事 - remember justice radhabinod Pal -







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坂本龍馬と万国公法

2010/01/10 04:12



【坂本龍馬についてのノート その2】

その1・「坂本龍馬と昭憲皇太后の夢」の続きです。


土佐勤王党の同志であった檜垣清治という人物が龍馬と再会したとき、檜垣が当時土佐で多く用いられていた長刀を差しているのに対し、龍馬は短めの刀を差していたのでその理由を尋ねると、「実戦では短い刀に利がある」と説明。

その発想に納得した檜垣清治は、次に龍馬と再会したとき、自分も短い刀を差すようにしたことを誇って見せたところ、「刀はもう古い。これからは、これだ」と言って懐から拳銃を取り出してみせました。

坂本龍馬が所持していたものと同じモデルのスミス&ウェッソン・モデル2アーミー 33口径の拳銃
坂本龍馬が所持していたものと同じモデルの
スミス&ウェッソン・モデル2アーミー 33口径の拳銃


三たび再会した時、檜垣は苦心して手に入れた拳銃を見せましたが、今度は龍馬が懐から取り出したのは武器ではなく、一冊の本でした。

「万国公法」表紙裏
「万国公法」表紙裏



「万国公法」。現在で言う「国際法」の書物です。

「これからは世界を知らねばならない、それにはこれだ」と説く旧友坂本龍馬に、檜垣清治はもうついていけなかった、というおはなし。



これは同じく土佐藩士であった千頭清臣が大正年間に刊行した坂本龍馬の伝記で紹介している逸話ですが、いくつかの史実に照らしてみて、そのまま事実であったかどうかは疑問視されているということです。

けれど実際に海援隊の武器などを積載したいろは丸と紀州藩の軍艦・明光丸が鞆の浦沖の六島付近で衝突したいわゆる「いろは丸沈没事件」で、坂本龍馬が万国公法に依拠して交渉し紀州徳川藩から賠償金をせしめている史実もあり、その解釈がどのようなものであったにせよ、彼が「万国公法」を何よりも頼りになる武器と考えていたことはまちがいなさそうです。

ウィリアム・マーティンによって著された漢語訳「万国公法」がわが国にもたらされたのは清国での刊行の直後で、当時識者の間では争ってこの書が読まれたということですが、坂本龍馬が師事することとなった幕臣・勝安房守麟太郎が越前福井藩主松平春嶽慶永公にこの書物を貸し出し、大政奉還〜王政復古の後、天皇が君主として外国公使に謁見することの是非が論じられた際にはその慶永公が「万国公法」を根拠に謁見を許可するよう上奏して実現した、という経緯からも、この動乱期にあって坂本龍馬-勝海舟-松平春嶽といったラインにつながる一派がとくに「万国公法」を重視していたようすがうかがわれます。

そもそも、「万国公法」=国際法 "International Law" なるものはヨーロッパで16世紀から17世紀にかけての凄惨な宗教戦争の歴史に鑑みて提唱され発展した、成文化された条約と慣習法、法の一般原則から成り立つ文明諸国家間の法体系。

それに対し東アジアでは古代以来、支那の中華皇帝の冊封体制に属する周辺諸国の朝貢、といった図式の「華夷秩序」があり、国際関係を中華思想に基づく「礼制」によって律してきました。

阿片戦争の結果として締結された1842年の南京条約は、「華夷秩序」から「条約体制秩序」、すなわち国際法の支配する世界への編入という世界史的意味を持っていたのです。

一方、聖徳太子の時代から冊封体制から離脱し上に天皇を戴く独立国家であり続けてきた日本国にとって、押し寄せるこの世界の秩序の転換にどう対処するかは、俗に「攘夷」に対する「開国」という粗雑きわまる図式で語られる「徳川レジュームの鎖国体制からの脱却」などというレベルをはるかに越えた、世界観と民族のあり方を決定する、開闢以来の重要課題として突きつけられたものだったと考えなければなりません。


日本の歴史〈19〉開国と攘夷 (中公文庫)


「攘夷」を掲げていた志士たちがなしとげたはずの明治維新が、どうしてあのように文明開化・欧風化の路線をたどったのか?

この基本的な問いに、納得のいく明快な説明を聞くことは、実はあまりありません。

上記のような世界秩序の再編成に直面して、勤王の志士たちは「万国公法」を武器に「小攘夷」から「大攘夷」へと作戦を変更した、と考える歴史観によってのみ、表向きの「攘夷」から「開国」への戦略転換は腑に落ちるものとなるのですから。

そして前頁でも触れたようにその「大攘夷」の歴史の先には日清・日露の戦役があり、ひいては東亜百年戦争の帰結としての大東亜戦争までが連なっています。

はじめに引いた坂本龍馬と万国公法のエピソードは、その歴史を象徴的に示唆する、ひとつの神話とでもいうべきもの。


もとより、文明国=キリスト教国にのみ適用する前提で発展してきた近代国際法は、砲艦外交でその範囲を広げておきながら、未開国は植民地として搾取し半文明国に対して不平等条約を押し付けて恥じないダブルスタンダードであり、近代日本の戦いはそんな不条理との闘争でもありました。

明治の御代に不平等条約改正を実現したカミソリ大臣・陸奥宗光という外務大臣が、かつて坂本龍馬の第一の腹心として活躍し、龍馬の仇討ちのために天満屋事件にも参加した海援隊隊士・陸奥陽之助の後身であった、ということも、決して偶然ではありません。


陸奥宗光〈上巻〉 (PHP文庫) 陸奥宗光〈下巻〉 (PHP文庫)



さて、それならばその歴史はどのような道筋をたどってぼくらがいま生きる現代とつながっているのでしょうか?
もしくは、どこかで断絶があり、かの志士たちのたたかいは挫折してしまっているのでしょうか?


それについては、また頁をあらためて綴ってみたいと思います。


<< 【坂本龍馬についてのノート その1】・「坂本龍馬と昭憲皇太后の夢」






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坂本龍馬と昭憲皇太后の夢

2010/01/04 03:55



【坂本龍馬についてのノート その1】


坂本龍馬という人物はかねてより国民的な人気がある幕末の英傑ですが、近頃はまたNHK大河ドラマ「龍馬伝」がスタートしたこともあって、あちこちでその名を耳にするようになりました。

けれど、坂本龍馬の成し遂げたこと・成し遂げようとしたことの歴史的評価をめぐっては、ぼくの意見は世間のそれとはちょっと趣を異にするのではないかと思っていたので、そのことを書き記しておきます。


すでに多くの方が指摘しているように、現代の坂本龍馬のイメージの基調になっているのは明らかに司馬遼太郎が1960年代に著した小説「竜馬がゆく」に描かれた人物像でした。



司馬遼太郎があえてその主人公の名を「龍馬」ではなく「竜馬」の表記としたのは、史実ではなくフィクションの世界のキャラクターであることを明確にしたかったため、というのも有名なおはなしです。

あえて歴史小説の主人公の人名表記にそうした配慮をするという異例の処置も、あらかじめ作者自身が後日その影響力の絶大なることを期してのことだったと思われ、近頃では代表作「坂の上の雲」のドラマ化でも話題になっている司馬遼太郎という文筆家の恐るべき筆力を思い知らされます。

けれどぼくは、いわゆる司馬史観の信奉者ではありません。そのわけは後述します。

もとより、大政奉還の一月後という絶妙のタイミングで志なかばに暗殺されてしまったため、生前より死後にその名が知られるようになった彼の場合、後世に描かれた虚像を振り払い坂本龍馬の人物像を読み解く、といった試みにもそれほど意味があるとは思えません。

歴史的評価を問うならば、生前の些事などよりもむしろ後の時代にどのような意義をもって受け止められたか、ということの方が重要になってくると思うからです。

それならば、司馬遼太郎以前の日本人にとって坂本龍馬のイメージとはどんなものだったのでしょうか?





明治の御代に皇后の位にあり今は天皇とともに明治神宮のご祭神としてお祀りされている昭憲皇太后というお方は、その御真影を拝見してみても、モダン・ガールなどという言葉もなかった時代にはるかにモダンな、むしろ現代的とさえ感じられる洋装・断髪のお姿で、また生涯に3万首以上の歌を詠まれ、「金剛石」「水は器」などの唱歌の作詞者としても記憶される詩人であられた、非常に興味深い女性です。

その昭憲皇太后が明治37年、日露戦争開戦直前のある夜、葉山の御用邸にて夢をご覧になりました。

夢の中には30代の武士が白装束で現れ、「微臣はこの魂魄を皇国海軍の上に宿し必ず勝利へと導き奉る」と奏上。

皇后陛下はその夢の人物が誰かを知らず侍臣にご下問され、献上された坂本龍馬の写真をご覧になり、間違いなくこの人物だと断定された、ということが大きく報道されました。

そのことををきっかけに、坂本龍馬の墓の在る京都霊山護国神社には忠魂碑が建立されています。



この夢の逸話の真偽のほどは定かではありませんが、大切なのはこのエピソードがそれまで無名に近かった幕末の志士・坂本龍馬の名を広く知らしめるとともに、尊王攘夷思想の再認識の気運を高めつつ日本国民の士気を鼓舞し「皇国の興廃この一戦にあり」の檄が象徴する激戦・日本海海戦に勝利、世界史的意味を持つ日露戦争の勝敗を決するに至ったということです。




司馬遼太郎は、「坂の上の雲」は、たしかに未曾有の国難である日露戦争に立ち向かった明治の日本の若き群像を輝かしく描いています。

けれど、その歴史は坂本龍馬とは結びつきません。

昭和の大東亜戦争を否定することで成立し、戦後民主主義の風潮の中でメインストリームとなって迎え入れられた司馬史観は、幕末から昭和にかけての東亜百年戦争という視点を持つ林房雄の「大東亜戦争肯定論」とは対極にあります。



それがぼくの司馬史観に与することのできない理由なのですが、そこでは日露戦争と坂本龍馬が結びつく接点が見失われてしまっているのです。

実際に司馬遼太郎は、もしも龍馬が生きながらえていたならば、明治政府の下で政治家や軍人としてではなく、むしろ実業家として活躍していたのではないか?などと語っているのを読んだことがあります。

時機を察するに長け自由に身を処する策士、現代の坂本龍馬像とはつまるところそんなものなのでしょう。

戦国武将に学ぶビジネス戦略、という類いの俗論と同様、そういう意味での坂本龍馬のイメージなどにはまったく興味を持てそうにありません。

ぼくが評価する坂本龍馬とは、あくまでも「尊王攘夷」の志士なのです。

その活動の軌跡は目先の外国人の殺傷といった「小攘夷」から、天皇陛下を戴く朝廷を中心に据えた国民国家の形成・富国強兵の実現・万国公法に依拠した新たな国際秩序の構築を前提とした「大攘夷」への転換であり、それはとりもなおさず日露戦争へと一直線に連なる憂国の志なのでした。

その歴史の連続性をふまえてみてはじめて、昭憲皇太后の夢に現れた海軍の守護神としての坂本龍馬のイメージこそが腑に落ちるものとなってきます。


それでは、その志は後の大東亜戦争とどのように結びつくのか?ひいてはぼくらが生きる現代の日本国とはどのように関わってくるのか?

それについては、また頁をあらためて綴ってみたいと思います。


>> 【坂本龍馬についてのノート その2】・「坂本龍馬と万国公法」












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2009/06/19 01:02
「パール真論」と「天皇論」
「パール真論」と「天皇論」 近頃は往年の大ヒット作「おぼっちゃまくん」がパチンコになってリバイバルしているようですが、小学校に入ったばかりの頃から漫画を描くことで頭がいっぱいだったぼくの場合、小林よしのりという異常天才作家との出会いは、デビュー作「東大一直線」にまでさかのぼります。 ...続きを見る

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2009/06/04 01:38
11人の怒れる男
11人の怒れる男 ヘンリー・フォンダ主演の「12人の怒れる男」という映画を観たのは、学生の頃、アメリカ合衆国の陪審員制度について考えるという講義の教材としてでした。 ...続きを見る

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2009/05/21 23:23
リメンバー・パール判事
リメンバー・パール判事 日本無罪〜パール判事Tシャツの発表、そのイラストレーション制作の動機や「日本無罪論」のご紹介、それにあらためてパール判決書について考察したことなどのまとめページをつくっています。 ...続きを見る

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2009/05/17 13:27
they say everything can be replaced.
they say everything can be replaced. 4月29日。 ...続きを見る

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2009/04/29 23:50
on Independence Day
on Independence Day 4月28日。 ...続きを見る

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2009/04/28 02:32
極東国際軍事裁判とラダ・ビノード・パール判事の判決文(反対意見書)
極東国際軍事裁判とラダ・ビノード・パール判事の判決文(反対意見書) パール判事トリビュート作品、「日本無罪」Tシャツを発表するにあたって、ささやかながらパール博士の仕事とその意義、ぼくらの思想の中での位置づけを解説したコンテンツを作成しています。 ...続きを見る

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2009/04/27 02:49
パール判事の日本無罪論
パール判事の日本無罪論 すぐれたる 人のふみ見て 思うかな やみ夜を照らす ともしびのごと 板垣征四郎 ...続きを見る

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2009/04/13 00:54
硫黄島の英霊
硫黄島の英霊 3月17日。わが家へ帰宅すると、葉子が「今日はおじいちゃんの命日」と言いました。 ...続きを見る

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2009/03/20 18:18
紀元節 折口信夫 マトリョーシカ
紀元節 折口信夫 マトリョーシカ 2月11日の紀元節。わが国が生まれた建国記念日に擬せられているこの日は、奇しくも日本の核心を詩歌と学問の両面からその生涯にわたって探求し続けた釋迢空・折口信夫博士の誕生日でもありました。 ...続きを見る

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2009/02/11 23:57
バラク・オバマと人種戦争
バラク・オバマと人種戦争 マトリョーシカ人形はかわいらしい女の子ばかりではなくて著名な政治家の企画ものもよく作られていますが、第44代アメリカ合衆国大統領に就任したバラク・オバマ氏のマトリョーシカもさっそく登場しています。 ...続きを見る

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2009/01/24 23:51
西郷隆盛の娘
西郷隆盛の娘 楽天市場で手に入るマトリョーシカを物色していて目に留まったのは、「永遠の維新者」南洲翁・西郷隆盛の像をマトリョーシカにしてしまったというこちらの珍品でした。 ...続きを見る

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2009/01/16 00:42
侵略国家
侵略国家 更迭の憂き目を見てしまった田母神俊雄前航空幕僚長の、問題の論文「日本は侵略国家であったのか」を読んでみました。 ...続きを見る

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2008/11/06 01:05

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